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装束の種類(狩衣)

狩衣の歴史
狩衣はその名の通り野外狩猟用のスポーツ服で、着用も簡便で運動性も高いものでした。便利なため一般公家の日常着として愛用されました。それが次第に院参にも用いられるようになり、時代を経るに従って公服としての色彩も増してきました。ただし狩衣での参内(昇殿)は一切認められず、狩衣に冠をかぶることは特殊な事情を除き(下絵巻参照)決してありません。

狩衣の区分
狩衣は古くは麻布製でしたので「布衣(ほい)」と呼ばれましたが、次第に上級公卿が着用するに及び綾織物なども現れました。そこで有文を狩衣、無文を布衣と呼ぶようになりました。狩衣には夏冬とも裏地を付けますが布衣には裏地を付けません。裏地を付けることで狩衣には美しい重色目が生まれました。江戸時代の公家社会では狩衣は堂上(殿上人以上)、布衣は青侍(公家に仕える侍)などの地下(じげ)が参内に付き従うときの衣服とされていました。
 狩衣には袖くくりの紐(袖露と誤った呼ばれ方もされます)がありますが、これは年齢によって薄平(うすひら・34,5歳まで)、厚細(あつぼそ)、左右縒(そうより)、籠括(こめくくり・内側に縫い込んでしまって、先端の露先だけが外に見える)と細く地味になってきます。これは位階によるものではないので見るときに注意が必要です。

薄平の袖くくり 左右縒の袖くくり 首上(首紙)の各部


狩衣の構成
下着に指貫(あるいは差袴、また平安から室町時代は「狩袴」と呼ばれる細身六幅の指貫的袴)をはき、狩衣を着るだけです。礼式の際は単を着ることもありますが、通常は略します。単の代わりに衵(あこめ)という衣を着ることもあります。狩衣の色彩や文様はまったく自由で、特に禁色(天皇などの専用色で一般の使用は禁止)を除いて全く自由でした。このため近世にはさまざまな意匠と色彩の狩衣が見られますが、近代になるとあまり奇抜な物は影を潜め、有職文が多くなりました。ただ、神職のメイン装束となった今日は、各人の好みに応じたさまざまな意匠のものが現れています。

狩衣を着る状況
日常着である狩衣も時代が下るに従い公服、礼服化しました。江戸時代には直垂階級に次ぐレベルの礼服になっていました。公家も一般に着用していました。ただし大納言までの着用で、大臣は小直衣になったようです。今日では神社神職の一般的な服装になっています。この場合、袴はたいてい差袴です。

絵巻物に見る狩衣

年齢による指貫の色分けは
鎌倉後期から室町頃
それまではかなり自由
文様はいつでも自由 色彩も禁色を
除けば自由
公卿の仕丁が
内裏に入るとき
細纓冠に

右の仕丁(貴族の召使い)が白い狩衣に冠を付けていますが、これは褐衣(かちえ・下級武官の装束)の闕腋袍と似ているからとも言われます。


小直衣 (このうし)

小直衣は狩衣の簡便さと威儀を正す両方の要求を折衷したものです。
簡便なものですが鎌倉時代にはすでに使用されたようで、「有襴の狩衣」とも称されました。その名の通り、通常の狩衣の裾に襴と蟻先を取り付けたものです。
「春日権現験記絵」に神影としてこの装束が着用されています。
 本来の狩衣は前身と後身が離れていたために首上は自由に調整可能でしたが、襴で前後が縫い合わされた格好の小直衣は、胸のくり上げ部分を最初から計算した形で縫製されています。
 小直衣は上皇、親王以下、大臣・大将以上が着用するものとされ、あまり一般的ではありません。江戸時代以降には天皇も着用されていますが、これは略儀のものです。その場合、冠の纓を畳んで金紙で夾む「御金巾子冠」をかぶります。天皇のかぶりものは在位中、冠のみです。
 現在では、天皇、神宮祭主(男子)、及び皇族のみが着用します。天皇は六月と十二月の「節折」、宮中より神宮・神社に御奉納になる御霊代御覧に用います。皇族は神事学習の際に着用します。
 神職では出雲大社で用いられているほか、便宜的に諸式に用いられるようです。中には袍の生地で作り、冠をつけて衣冠の代わりとするような極端な例もあるようです。

小直衣の袖括りの紐

小直衣は上記のように特別な上級貴族が着用した特殊な装束でしたので、袖括りの紐も定めが特別になります。
基本的には狩衣と同じ定め、年齢に応じた使い分けと考えて良いのですが、現実的には薄平は用いられず、厚細だけが用いられていたようです。つまり大臣・大将になる年齢ともなると、薄平は用いられないということでしょう。
 ただ、親王の場合は若くして小直衣を着用できることになります。

浄衣・半尻 (じょうえ・はんじり)

狩衣に類似した物に浄衣と半尻があります。
 浄衣は神に奉仕する神事服で、故実に正確に沿えば裾を「ひねりかえし」仕立てにしない等、狩衣との若干の相違がありますが、現在では全く区別されずに白色無文の狩衣(布衣)を浄衣と呼んでいます。
 半尻は子供服です。基本的には狩衣と同じですが、活動的な子供には後身の長い裾が邪魔なので、これを一尺ほど切りつめたもので、また袖括りの緒も数本の色糸で美しく結ぶ毛抜き形の「置き括り」にするなど、子供服らしく華やかに可愛く仕立てられています。置き括りは下の写真の通りです。
 現在の皇室ではご誕生の幼児、袴着、御読書始めの儀式などに用いられています。現在ではこの場合、袴は「前張大口」という白絹の切り袴を着けます。前張りというのは、前が大精好、後ろが小精好という生地で仕立てられた袴です。戦前までは正式な二陪織物の指貫を着用しました。手には若年者(16歳頃まで)が持つ「横目扇(よこめおうぎ)」を持ちます。これは檜ではなく杉の薄板で拵えた扇で、木目を横方向に使うために「横目」の名があります。女子用の檜扇と同じように、扇面が彩色され、六色糸の飾り、飾り花が付けられます。ただし子供用ですから成人女子のものよりも小振りで、25橋の作りです。

置きくくり

水干

水干は狩衣と同じ発祥で、元々は庶民の平常着でした。
その名残は狩衣にない「菊綴」と呼ばれる総が前、後ろの要所要所にあることです。これは切れやすいところを補強して縫った糸の端を房状にほぐしたものが元になっています。狩衣にある首上のとんぼはなく、前後に付けられた紐で結びます。
 水干は時代を経るに従って武家のやがては一部の公家も含めて日常着となり、やがて礼装にもなりました。現在では女子神職が使用することがありますが、この場合は菊綴は付けません。
 水干の着方には2種あり、狩衣同様の着方で、単に襟元をとんぼでなく紐で結ぶ方式と、左図のように襟を内側に折り込んでVネックにし、右肩を回した後ろ紐と左脇から出した前紐をたすきにして結ぶ方式があります。この場合には裾を袴に着込めることになります。
 高倉流には、この袴に着込める方式はなく、現在の女子神職も、袴に着込めることはありません。
 水干の袴は特に水干袴と言い、要所に菊綴がついています。烏帽子は五位以上が立烏帽子、六位以下が風折烏帽子です。
裾だし
(覆水干)
上げ頸
(上領)
上げ頸2
(上領)
垂り頸
(垂領)

水干の菊綴について

水干は平安・鎌倉時代、庶民の平常着でした。上記のように補強のための菊綴がついていたのです。絵巻物などでは庶民での着用に菊綴が省略されているものもあるようですが、下級武士の水干でも菊綴が見られる図像が多くあります。菊綴はいかにも可愛らしい飾りのように見えますから、子供服専用に思われがちですが、そのようなことはありません。
 後年、公家階級にも家庭内のくつろぎ着として着用されるようになりますと、いくつかの定めが生まれてきました。
摂家では水干は狩衣のように「上げ首」に着ないで「垂り首(Vネック)」にしか着ないとされました。これはあくまでも「くつろぎ着」であって、庶民と同じではない、目上の人に会う服装ではない、ということを強調したものでしょう。
 摂家に次ぐ家格の清華家では、菊綴や袖括りの紐を付けないとされています。これも庶民服とは違うということを強調された結果でしょう。逆に言えば庶民階級では菊綴・袖括りを付けるのが一般的であったと言えます。
 ただ、鎌倉時代には「菊綴は衛府の官人、検非違使が用いる」という記述もあり、そうなるとそれ以外の場合は菊綴はなかった、ということになります。このあたりは現品の遺物が残っていないため、憶測の範囲を超えませんので、確たることは判りません。

法然上人絵伝に見る
公家の水干姿
白い菊綴が見える

退紅(たいこう)と白張(はくちょう)

どちらも貴族の下部の衣服で、狩衣形式のものです。
これらを総称して召具(めしぐ)装束とも呼びます。
やがて、その装束を着用している下部の人そのものを指すようにもなりました。

 退紅は「あらぞめ」というごく薄い紅染めの狩衣と黒袴で構成され、古くは親王家専属の下部服であったと言われますが、のちには摂関の傘持ち、沓持ちも着用しました。現在では石清水八幡宮の駕輿丁(かよちょう)が上下同色の退紅を着用します。本来は狩衣形式なのですが、いつの頃からか下級武官の袍である褐衣(かちえ)のように、肩の部分を縫いつけているものを用いることが多いようです。平礼(へいらい)烏帽子をかぶります。
 白張はごく簡単な狩衣形式で、呉粉で粉張りしたのでその名称があります。張烏帽子をかぶります。白張を着る下部(仕丁)を「白丁」とも呼びます。松明持ちや車副いなどを任務としました。
肩を縫った
退紅

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