近代女子袴の歴史

平安時代以来、一定階級以上の女性たちが着用してきた袴ですが、鎌倉時代以降衰退して、宮中以外で女子が袴をはくことは見られなくなりました。この女子の袴姿が復活するのは明治になってからです。
 
 西欧文明の導入と共に、立って歩き椅子に座る生活が公式になってきますと、女子も外を歩くことが容易で、裾さばきを気にしない服装が必要になってきます。宮中では1880(明治13)年、袿袴姿の袴を切袴にして、袿の裾をたくしあげた「袿袴道中着姿」が導入されました。それ以前に一般の女性たちも、外出を必要とする職業にある当時のキャリアウーマンたちは、必然的に袴をはくようになります。

 当初は女子も男の袴、仙台平などを着用していました。学制公布の1871(明治4)年の錦絵では、仙台平の袴を着用した女教師の錦絵が描かれています。学校の教室は机と椅子の生活なので、教師・生徒共に裾の乱れを気にするようになったため、文部省は女学校開設にあたり太政官布告で女教師・女生徒の袴着用を認めたのです。同じく明治4年に官営富岡製糸場が開設されたとき、全国から集まった工女(後年の女工哀史時代の立場とは違い、国策である「殖産興業」をささえる地域指導者のたまごとして、士族の子女が多く参加しました)たちは男子の袴を着用していました。

 しかし、女子が男の袴を着用するのは奇異とされ、新聞紙上で盛んに攻撃の対象となりました。
「今日我邦にも婦女子にして袴を着し昂然として毫も恥る意なし。その甚哉奇異の風体、実に国辱とも云べし」(郵便報知新聞  明治7年)
「女子といふものは髪形から着物までも艶くして総てやさしいのが宜いとおもひますに此節学校へかよふ女生徒を見ますに袴をはいて誠に醜くあらあらしい姿をいたすのはどういふものでありますか」(読売新聞  明治8年)
 そして1883(明治16)年、文部省は女学校の服装に規制を定めて「習風ノ奇異浮華二走ルコトヲ戒ムルハ、教育上惣ニスヘカラサル儀二候」として、女子の男袴着用を禁止しました。

 この1883年というのは鹿鳴館が完成した年でもあり、欧化主義の全盛期でした。1885(明治18)年には森有礼が文部大臣に就任します。彼は英語の国語化を提唱するほどの欧化主義者でした。そして華族女学校や東京女子師範学校の生徒に洋装を義務づけたりしています。けれども彼は1889(明治22)年に暗殺され、女学生たちは再び和装に戻りました。

 下田歌子という明治の女子教育界の巨星がいます。
安政元年岐阜県に生まれ、士族の娘ながら宮中女官となって明治天皇・昭憲皇太后の信任も篤く、1885(明治18)年、学習院女子部の前身である「華族女学校」開設時には幹事兼教授に任ぜられ、翌年校長谷干城入閣後、学監となり校長事務を代行しました。 現在の女袴は、下田歌子が創案したものと言われています。

 その事情を紹介しているものとして、次のようなものがあります。
『明治事物起原』(石井研堂)
「女学生の袴の海老茶色なるは、華族女学校に創まり、校長下田歌子の案なりといふ。これより、女学生に『えび茶式部』の俗称あり」
『海老茶式部の母』(井上ひさし)
「明治十八年、いまの学習院女子部の前身である華族女学校が開校したとき、そこの学監だった彼女は、それまでの姿がとかく女子としての礼容を欠き、高貴な御方々の前ではなんとしても畏れ多いと考え、従来の緋袴と指貫とを折衷して新しく華族女学校専用の袴を考え出した」

 正確なところは判りませんが、下田歌子が、宮中における袿袴の切袴をもとに新たに作ったのが女袴のようです。
 男子の袴と違って襠(股)のない、スカート状の行灯(あんどん)袴であるためトイレの便が良く、背中に腰板もなく優美であるのは宮中袴の流れです。こうして時代にマッチして優美、しかも実用性に優れた「装束の申し子」女袴が生まれたのです。裾を気にすることなく颯爽と歩くことが出来る袴姿は、新しい時代の女学生の若々しい姿を象徴するものとなったのです。

海老茶式部

 現在でも学習院中・高に似せた制服が全国の私立学校で見受けられますが、身分制度の色が濃く残っていた明治時代ならばなおさらで、女学生の袴姿はまたたくまに普及しました。華族女学校の袴はカシミア製で色は海老茶。紫がかった暗赤色です。これは下田歌子が、宮中袴では16歳未満の色とされる「濃色(こきいろ)」をもとに発案したことは容易に想像されます。全国の女学校でもこれにならったため、女学生のことを紫式部になぞらえて「海老茶式部」と呼ぶこともありました。なお、海老茶のエビは、本来は「蒲萄」と書いてエビカズラ(ヤマブドウ)の色のことですが、のちに伊勢エビの色になぞらえて、「海老茶」と書かれることが一般化しました。

 1904(明治37)年の俗謡『松の声』別名:海老茶式部堕落の巻(神長瞭月)
「勤め励めよ恋の道、今は昔紫の、式部は人に知られたる、女子の鑑と聞たるが、恋に違は無かりしと、紫ならぬ薄海老茶。年は移りて紫も、今は海老茶に変れども、兎角変らぬ恋の道。」

『吾輩は猫である』(1905-6(明治38-9)年 夏目漱石)
「主人は娘の教育に関して絶体的放任主義を執るつもりと見える。今に三人が海老茶式部か鼠式部かになって、三人とも申し合せたように情夫をこしらえて出奔しても、やはり自分の飯を食って、自分の汁を飲んで澄まして見ているだろう。」

 この頃になりますと、海老茶式部=女学生が定着するだけでなく、海老茶式部=「生意気」「おてんば」というイメージで、揶揄し、からかう風潮も生まれていたようですね。なお、「鼠式部」がどの女学校のものかは不明です。たぶん、そんな女学校はなく、漱石一流のレトリックなのでしょう。

紫衛門

 スタンダードであった海老茶に対して、独自の色彩を主張したのが跡見女学校です。
跡見花蹊は公家屋敷(姉小路邸)内で私塾を開いていましたが1875(明治8)年、跡見学校を開校しました。私塾時代も公家の子女を集めていましたし、当時のことですから生徒のほとんどは華族などの上流階級の子女でした。
 跡見学校も女袴をいちはやく導入。その紫色の袴は東京市民の目を引き、海老茶式部に対して「紫衛門」とも呼ばれました。これは平安の歌人である赤染衛門になぞらえたものです。

女学生袴の始まりは華族女学校か跡見女学校か?

 一般的には、女学生の袴は、上記のように下田歌子が華族女学校のために考案した、とされることが多いようです。ところが、紫衛門の跡見女学校こそが女学生袴をはじめて採用した、とする説もあります。
 跡見女子大学の『学生便覧』では、「沿革」で次のように述べられています。

「生徒の服装は、明治8年の開校の時から紫の袴を着用した。時の皇后陛下の「跡見女学校にては紫袴を用いよ。紫と緋とは同位にて、女生徒にふさわしき色合いなれば」とのご沙汰を得たものという。紫の袴に象徴される跡見女学校のスマートさは一目瞭然、世の注目を集めて以後の女学生ファッションの範となった。」
 
 跡見女学校には「お塾」と呼ばれた寄宿舎が敷地内にあり、ここで着用されていたため、袴は「お塾袴」と呼ばれたそうです。これについては跡見花蹊によって語られており、
「婦人にはやはり緋の袴仕立にして、色は紫を用いたらよかろう」(読売新聞 明治35年11月9日)
という、皇后陛下のご助言があったということです。

 実際のところ、下田歌子が先か跡見花蹊が先か、難しいところです。ただし、1882(明治15)年の跡見女学校お塾生の写真に、袴姿が写っていることは事実です。

明治40年代前半に流行した俗謡『ハイカラ節』は、あちこちの学生風俗を歌ったものですが、跡見女学校についてはこう描かれています。
「しなしなしなと 出で来るは
やさしく君を小石川 跡見女学校の女学生
背なに垂れたる黒髪に
挿したるリボンがヒーラヒラ 紫袴がサーラサラ
春の胡蝶の戯れか」
(昭和6年収録のレコードより。収録媒体により微妙に歌詞は異なります)

 跡見女学校では、1915(大正4)年11月15日、大正の御大典を記念して校服が制定されました。これは世間に紫袴の女学生が増えたため、跡見生を識別する目的があったそうです。この新制服は、木綿、色は袴と同じく紫紺、羽織も同じでしたから、全身が紫、ということになります。面白いのはこの時、花蹊はこの紫色を「活海老(いけえび)色」と名付けました。海老茶に対する言葉のようですが、伊勢エビの背中の色としますと、今の紫とは違う「濃色」に近い色のようにも思えます。

『吾輩は猫である』
「…突然妙な人が御客に来た。十七八の女学生である。踵のまがった靴を履いて、紫色の袴を引きずって、髪を算盤珠の様にふくらまして勝手口から案内も乞はずに上って来た。是は主人の姪である。」
 跡見の女学生だったのでしょうかね。

女学生のイメージ確立

 1899(明治32)年には当時の女子の最高学府である「女子高等師範学校」(現・お茶の水女子大学)も袴を制服に採用。ここは袴の上に金属バックルのベルトをする特殊な装いが目立ちました。通称「チャンピオンベルト」。これはなんと、現在でもお茶の水女子大学附属中学校の制服に残っています。

 こうして、明治30年代半ばには、女学生=袴姿のイメージが確立されました。当時の女学生というと、袴姿で束髪庇髪、自転車に乗っている「ハイカラさん」イメージがありますが、実はこれにはモデルがあります。それはプッチーニの「蝶々夫人」を当たり役としたオペラ女優、三浦環。彼女は1900(明治33)年、芝の自宅から上野の東京音楽学校まで、片道2里の自転車通学をしたのです。当時まだ珍しかった自転車に乗って通学する女学生は評判となり、「自転車美人」と呼ばれて見物人も出たほど。さらに小杉天外は新聞小説『魔風恋風』で、才色兼備の女学生萩原初野の、花の女学生生活を描きました。

「鈴の音高く、見はれたのはすらりとした肩の滑り、デードン色の自転車に海老茶の袴、髪は結流しにして白いリボン清く、着物は矢絣の風通、袖長ければ風に靡いて、色美しく品高き十八九の令嬢である。」(読売新聞 明治36年)

 こうして女学生の活動的な衣服として認知され、ステータスを確保した女袴は、卒業生が社会に出るに従って、職業婦人たちにも愛用されました。当時は女性の職場は限られていましたが、女教師をはじめ女子判任官(公務員)など、知的な職業に従事する女性たちに愛用されたのです。
 また小学校においても裕福な家庭の子女は、ステータスを示すものとして幼い頃から着用されました。

 こうした袴の着用は、女性が社会とどのように係わるかの問題と密接に関係しているのでしょう。宮中に仕えることを平安の昔から「宮仕え」と言いましたが、近代では一般の組織で仕事をすることもそう表現することがあります。つまり女性がプロ フェッショナルとして社会と接するパブリックな「宮仕え服」として、袴姿が広く普及したと言えるのではないでしょうか。

 明治から大正にかけては女性が女学校に学ぶことは少数派であり、女学生たちは非常に意識が高かったことでしょう。また職業婦人も極端に少なかった時代、彼女たち の矜持は現代のキャリアウーマンとは比べられないほど高かったことでしょう。 ですから「宮仕え服」としての袴姿の流行は、単なるトレンディファッションというような形而下のものではなく、もっとメンタル、スピリット的なものではなかったか と思 います。今日、社会で活躍する女性たちに、この矜持の表れである袴姿をぜひ受け継いで欲しいと思います。

 女子の袴着用は、昭和初年頃まで続きます。関東大震災以降、昭和に入ってからは洋装が一般家庭にまで浸透し、女学校制服もセーラー服が普及したため、袴姿は急速に衰退しました(女学生の洋装の濫觴は、山脇高等女学校の1919(大正8)年、そして1920(大正9)年に平安女学院が採用した、セーラー襟のワンピースとされています)。「紫衛門」の跡見高等女学校も、1930(昭和5)年に制服を洋装に変更してしまいました。跡見の洋制服はジャンパースカートとジャケット。けれども「お塾袴」の伝統を受け継いで、スカートはヒダが9つしかないものを用いました。

 現在では女子大生の卒業式、小中学校の女教師が卒業式で着用するなど、ごく限られた用途で着用されるだけにとどまっています。その利便性と優美さを考えますと、これは本当にもったいないことだと思います。


このページ参考文献 国立国会図書館第148回常設展示 「女學生らいふ」パンフレット

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