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 三鷹


 武蔵野うどん
     <2009/7/3>

 三鷹駅の駅ナカ「Dila(ディラ)三鷹」が全店舗オープンしました。
いやもう見違えちゃいますね。
三鷹は新宿・中野の次の特別快速停車駅、緩行腺(総武線)の始発駅という恵まれた条件にありながら、なんとなくマイナー感が否めませんでした。コンコースは広かったのにね。

……で、今はやりの駅ナカビジネスでお洒落な商店街(っていうのか?)が昨年末にオープンし、このたび全店舗が出そろったワケ。

紹介する「武蔵野うどん彩花庵」は、この「Dila(ディラ)三鷹」ではなく、もともと通常の駅ソバ・立ち食いソバ「小竹林」であった場所がリニューアルオープンとあいなりました。改札口の中からも外からも入店できる親切設計(店内が銭湯の男湯・女湯のように仕切られている)。
ただし要注意!!
改札内から入ると「蕎麦専門店」になってしまいます。
改札の外から入ったゾーンが今回ご紹介の「武蔵野うどん」。
男湯と女湯を間違えると大変です(笑)。

で、ですね。女湯ではなく…うどんの方。
メニューが「つめたいうどん」しかありません。
温かい「かけ」もなければ、こちらには蕎麦もなし。
いやぁ思い切ったものです。

「武蔵野うどん」は、東京都西部から埼玉県南部など、江戸時代から小麦耕作の盛んであった地域で発達したものです。武蔵野・多摩地域は水田が少なく、米は貴重であり、その分を雑穀や小麦食で補っていました。家庭で打つ自家用のうどんですから、麺はごく太い乱切りで非常に腰があり、精白度も低く、薄茶色をしている野趣あふれたもの。それがかえって面白いと評判になり、近年では、武蔵村山市などでは地域振興のひとつの柱にしようとする動きもあります。

よく「肉汁うどん=武蔵野うどん」と勘違いされる方も多いのですが、つけ汁に薄切りの豚肉を入れたこのメニューは、明治中期以降に生まれた、1バリエーションに過ぎず、武蔵野うどんを代表するものではありません。全体的に汁が塩辛く甘みが少ないのは、このあたりの嗜好と高価な甘味料の使用を控えた名残なのかもしれません。

で、三鷹駅は南口は三鷹市、北口が武蔵野市であり、店舗は北口よりにあるので、まさに「武蔵野の入口」。
武蔵野うどんにうってつけじゃないですか。

ええ、ええ、もちろん食べてみました。
麺は乱切りの極太で、驚くほどの腰の強さ。これはすごい。弾力もあり、歯がジワジワと、うどんに食い込む感触が楽しい。口の中にひろがる小麦の香り。量も十分でした。
駅の立ち食い店(ここは椅子席ですが)としては、かなり評価が高いんじゃないですかね。

※2010年10月追記
今はメニューもだいぶ増え、温かいうどんもあります。駅構内から入ってもうどんが食べられる模様。





 東京スタジアム
     <2009/7/27>

 今年(2009年)のオールスターは面白かったですね。打撃戦のシーソーゲームで、押し出しがあったり、ホームラン競争みたいにガンガン打ったり、たとえ技術的には凡試合と言われても、ビール片手に見る者にとっては最高に面白かったはず。
そう、日本人にとって「見るスポーツ」の王者はやはり野球でしょう。Jリーグが出来たとき
「これからはサッカー。野球はもうおわり」
なんて言われたり、近鉄球団が廃止になるというとき西武の堤オーナーがセパ合同1リーグ制を主張したり、それを阻止するためにホリエモンが新球団の名乗りを上げたり。かえって活性化しました。いまはパリーグもセリーグ並の人気ですよね。騒動も結果的には野球界にとっては良かったことなのでしょう。
それになにより、酒飲みながらの観戦&応援には、攻守入れ替えのイニング制が見ていて楽。サッカーですとのんびり酒飲んでいるヒマがありませんからね。やはり日本人には野球だなぁ。
このあたりのサッカー場としては、巨大な埼玉スタジアムとならび、2001年に調布基地跡地にできた東京スタジアム(現在:味の素スタジアム)でしょうか。
しかし「東京スタジアム」はこれだけじゃないんです。しかも中央線もからんでいるんですよ。

中央線沿線の野球場と言えば、それはもちろん水道橋の東京ドーム、かつての後楽園球場でしょう。
ホームの発車メロディが「闘魂こめて〜♪」のジャイアンツの歌ですからね。
でも水道橋は当ブログの守備範囲ではありません。残念!
さらに残念なのは、かつて守備範囲にプロ野球の野球場があった、ということなんですよ。ええ、今はもうありません。完成から解体までわずか5年という、実に短命の幻の球場でした。

これが今回のテーマ「東京スタディアム(通称:武蔵野グリーンパーク野球場)」。
三鷹からなんと専用の鉄道線路(中央線支線)があるという、便利な球場でした(後楽園のほうが交通至便でしょうけれども)。観客収容人数はなんと5万人!!甲子園球場なみの、ものすごく本格的な球場であったことがわかります。

戦後、平和が蘇った日本では、戦前以上にプロ野球への関心が高まり、試合数も増加しましたが、首都圏には野球場が後楽園球場しかなく(神宮球場は進駐軍に接収されていました)、その混雑解消のために建設されたのがこの「東京スタディアム」。場所として白羽の矢が当たったのが、三鷹駅の北にある広大な敷地です。
ここは終戦まで「中島飛行機」の武蔵製作所でした。
中島飛行機は今の富士重工業(スバル)の前身。なんと当時は三菱航空機を凌ぐ東洋最大、世界有数の航空機メーカーでした。子どもの頃のプラモデルの知識で言えば、陸軍の「隼」「鍾馗」や「疾風」などの戦闘機、「呑龍」爆撃機や海軍の夜間戦闘機「月光」などを生産。アメリカ本土直接空襲を図ったとされる幻の超重爆「富嶽」を計画するなど、スケールのビッグな会社でした。
当然ながらアメリカの戦略爆撃の最重要目標となり、エンジンの主力生産工場であった武蔵製作所も昭和19年11月から9度にわたり徹底的に爆撃破壊され(投下総数500発)、工場群はすべて灰燼に帰しました。

戦後、その15万坪にも及ぶ広大な敷地はいくつかに分割されて平和利用されることになり、その一角に計画されたのが「東京スタディアム」なのです。
経営主体は中島飛行機の残留従業員労働組合が、1947年に土地払い下げを受けて設立した会社。社長には公職追放を受けた松前重義(技術者であり政治家であり東海大学創立者、武蔵野市在住)、役員には武者小路実篤や近衛秀麿(音楽家で文麿の弟)、徳川夢声など有名人士が名を連ねました。少しでも文化的な娯楽を楽しみたいという、多くの日本人の念願が感じられますね。
そして国鉄も協力的で、球場までの専用線を1951年4月に開通させました。
……といっても、新たに線路を敷設したのではありません。中島飛行機武蔵製作所への引込線を利用して開通させたのです。ま、観客収容人数5万人ですから、旅客収入を考えれば、積極的に協力するのも当たり前ですかね。
三鷹駅から途中駅なく球場前の「武蔵野競技場前」駅までの支線。ただし野球開催日には東京駅からの直通電車も運行されたと言われます。これは便利ですね。

よく「ここを国鉄スワローズの本拠地球場にしようとした」と語られることも多いのですが、根拠はないようです。
国鉄としては、水道橋駅の後楽園球場、接収中とはいえ神宮球場の千駄ヶ谷・信濃町駅もあり、特定の球場に肩入れしにくかったのが実状のようです。結局、後に国鉄スワローズは後楽園を本拠地球場としています。
私は国鉄スワローズにはあまり記憶がありませんが、小学生の時には金田正一が活躍していた、という程度の記憶。その後、サンケイアトムズになり、ヤクルトになったんですよね。関西人としてはいまひとつピンときません、このあたりは。

さて「東京スタディアム」は1951年の4月に開業。まず六大学野球で使い、5月にプロ野球(国鉄スワローズ対名古屋ドラゴンズ)戦で使用。けれども突貫工事のため芝生も生えそろっておらずに土ホコリがもうもうと舞うような状態。後楽園と比べれば交通の便も悪く、なにしろ周囲は焼け野原、良い印象なく観客は帰ったそうです。開業早々に縁起の悪いことで…。
その後、周辺に米軍住宅が建設されて環境が変わったり、翌1952年には神宮球場の接収解除、川崎球場が建設されるなど、さまざまな状況の変化が生じました。
開業1年目のプロ野球界再試合数はわずかに16。これでは採算がとれるわけがありません。事実上閉鎖。
翌年には国鉄専用線が営業休止(正式廃止は1959年)。足を失っては運営できようはずもなく、翌年の1953年には経営母体の会社が解散。
つまり球場としての運営は1シーズンで終わってしまったわけです。わずか16試合(このほか六大学野球19試合)のために建設された5万人収容の大球場。
これもまた、戦後混乱期のエポックメイキングな出来事のひとつ、と言えるでしょうか。
球場は1956年に解体され、敷地は日本住宅公団に売却されて武蔵野緑町団地となり、今日に至っています。

いまでもgoogleの航空写真を見ますと、三鷹から武蔵境との中間あたりで、ぐぐぐ〜と北方向に湾曲し、境浄水場の東辺を通って北上、武蔵野中央公園グラウンドの南に達するカーブラインが見て取れます。これがかつての専用線路の跡。現在その一部が「グリーンパーク遊歩道」として整備され、戦前戦後の巨大プロジェクトたちの名残をとどめています。
もしも今、昔のままの「東京スタディアム」があったらどうだったでしょうね。サッカーの東京スタジアムみたいに盛り上がっていたかな??
しかし、やはり無理じゃないかな、という感じもしますね。だって中央線人って、なんとなくプロ野球とかに冷めた目を持つ「文系人」が多いような気もしますもの。かくいう私も、あんまり興味はございません。むしろ「球団関係なく、みんなと野球見ながらビール飲んで騒ぐこと」や、「プロ野球に熱中する人間」を観察するほうがよほど楽しい、というタイプですね。

ちなみに、またさらに別の「東京スタジアム」球場がありました。
これはなんと、中央線文化とは対極をなすような下町、荒川区南千住です。
1962年に開業。経営母体の親会社は当時景気の良かった映画の「大映」。毎日大映オリオンズ(大毎オリオンズ)なんて球団もありました。
しかし映画産業の衰退とかジャイアンツV9とかによるパリーグ不人気なども影響、全体的にぱっとしませんでしたね。それでもロッテとなったオリオンズの1970年のリーグ優勝は、この東京スタジアムで決まりました。が、大映は翌年に倒産。その後に球場の経営権は国際興業社主である「フィクサー」小佐野賢治の手に移り、すったもんだの挙げ句、1972年のシーズンを最後に閉鎖されました。跡地は現在「荒川総合スポーツセンター」になっています(私の趣味の一つがライフル射撃で、このスポーツセンターにエアライフル射場があるため、ときどき訪問しています)。

有為転変は世の常。ああ無情。
サッカーの「東京スタジアム」が今後も繁栄してくれることを祈ります。
いえ、ちょっとビジネス的にサッカーとご縁ができた関係がございまして・・・。





 駅の下、川は流れる
     <2009/8/26>

 三鷹駅は2つの市にまたがっている駅で、北口が武蔵野市、南口が三鷹市です(駅の正式な所在は三鷹市)。繁華街という意味では、三鷹市の南口側が栄えていますが、武蔵野市の北口側は、いきなり北村西望作の 「武蔵野市世界連邦平和像」がお出迎えしてくれ、「文化都市武蔵野」の玄関口という、落ち着いた佇まいを見せてくれます。三鷹は、南と北で、ぜんぜん雰囲気が変わる駅なのです。

どうして駅が2市にまたがっているかと言うと、武蔵野市と三鷹市の境界が、中央線ではなく、玉川上水によって仕切られている、という理由によります。玉川上水は、小平からこのあたりまで、五日市街道に沿った形で南東方向に流れています。中央線はご存じのように、真東西に走っており、ちょうど三鷹駅のところで玉川上水と斜め交差しているのです。

町の境が川によって仕切られていることは、どなたにも理解しやすいことでしょう。相互の往来が「橋」のある場所のみに限定され、それ以外の地域では、たとえ近距離でも日常交流できないという地勢は、自ずと民情にも影響し、別の社会を形成するものです。もちろん玉川上水は、自然のものではない人工的な流れですが、このあたりの町が玉川上水開削以降に形成されたことを考えれば、その流れが、あたかも自然境界のごとく影響したことは当然です。

玉川上水は、人口が増大する江戸の飲料水を確保するため、1653(承応2)年に開通した人工水路。1653年といえば、徳川家康が幕府を開いたわずか50年後です。玉川上水が実用的水利としての機能を終えたのは、1965(昭和40)年、淀橋浄水場を廃止したときですから、利用期間は312年の長きに渡ります。徳川幕府の先見性が判りますね。
玉川上水開削に際しての苦労話は不明な点も多々あり、今回だけでは語り切れません。ただ、羽村〜四谷大木戸間約43km、高低差わずかに100mの武蔵野台地を、たった7か月間で開通させた技術水準の高さと、工事にかける執念は驚異に値します。

玉川上水はもともと露天掘りでしたが、現在では都心部は暗渠化されています。三鷹駅は玉川上水の真上にあり、当然ながら流れは見えませんが、駅の北西50m進めば上流が、南東50m進めば、下流の流れを見ることが出来ます。ただしこの水は江戸時代のような多摩川の水そのものではありません。役目を終えた昭和40年以降、カラ堀であった玉川上水でしたが、1986(昭和61)年に東京都の「清流復活事業」の一環として、わざわざ高度二次処理下水を小平で流している、その水です。
三鷹駅近辺の流れを覗きますと、平常は底のほうをチョロチョロ流れているだけですから、とても投身自殺できるような流れには思えません。

そうです。
三鷹と玉川上水と言えば、まず思い浮かべるのが太宰治の投身自殺です。太宰の自殺は1948(昭和23)年のこと。愛人の山崎富栄と玉川上水に身を投げました。入水の場所は明確ではありませんが、三鷹駅から南東に進んだ(いまは「風の道」という散歩道に整備されています)「紫橋」近辺と推定され、プレートが設置されています。

当時の玉川上水は、太宰本人の言葉を借りれば
「四月なかば、ひるごろの事である。頭を挙げて見ると、玉川上水は深くゆるゆると流れて、両岸の桜は、もう葉桜になっていて真青に茂り合い、青い枝葉が両側から覆いかぶさり、青葉のトンネルのようである。ひっそりしている。」
という側面もありながら、
「万助橋を過ぎ、もう、ここは井の頭公園の裏である。私は、なおも流れに沿うて、一心不乱に歩きつづける。この辺で、むかし松本訓導という優しい先生が、教え子を救おうとして、かえって自分が溺死なされた。川幅は、こんなに狭いが、ひどく深く、流れの力も強いという話である。この土地の人は、この川を、人喰い川と呼んで恐怖している。」(『乞食学生』)
というような、案外の激流だったようです。
 ちなみに「訓導」というのは小学校の先生のことで、1919(大正8)年に、井の頭公園にに遠足に来ていた児童が玉川上水に転落、助けようとした松本訓導が殉職した事故のこと。井の頭公園に立派な石碑が建っています。

太宰と山崎富枝との心中の理由は、諸説さまざまに語られています。どのような理由と経緯があったのかは、本人たち以外、知る由もありません。愛情関係のもつれ、芸術家ならではの苦悩があったのでしょうか。山崎富枝による無理心中説(太宰殺害説)も取り沙汰されていますので、太宰の意志で投身した確証はありませんが…。

紐で結び付けられた2人の遺体が発見されたのは、奇しくも太宰の誕生日、6月19日のこと。この日は「桜桃忌」とされ、太宰の熱心なファンたちが、お墓のある三鷹の禅林寺にお参りします。特に今年(2009年)は太宰の生誕100年ということで、さまざまなイベントが行われ、桜桃忌も例年にない人出でした。
 太宰が生きていれば今年100歳。いまも生存していた可能性だってありますよね。死んで花実が咲くものか。その時死ななくとも、人間必ずいつかは死ぬのです。あせらず、あわてず、あきらめず、死ぬまで生き抜いて欲しかったと思います。私も若い頃に太宰文学を読み、そのデカダンス、「無頼派」ぶりに何かしら共感した者の一人として、その最期を心から惜しみます。そして、江戸時代の初めから今日まで、様々な人々の喜びと悲しみを見続けた玉川上水に、感慨を新たにするのです。





 幻の鉄道計画
     <2009/9/14>

 三鷹は吉祥寺よりも商業的に発展していない街ですが、吉祥寺に止まらない特別快速が停車します。このことは吉祥寺の住民や利用者がいつも不満に思うところ。三鷹に特快が停車するのは、1930(昭和5)年開業の新しい駅であるため駅構内が広く、複々々線あり、特快−快速の待ち合わせが出来るからです。吉祥寺は明治以来の古くからの駅なので商店街が間近に迫っており、いまさらの駅拡張は残念ながら困難です。

また三鷹には大きな電車区(車輌センター)があり、カナリア色の緩行線(総武線)の始発駅になっています。朝のラッシュ時の上りでも座って通勤できるため、三鷹はベッドタウンとしては、吉祥寺以上に人気が有るとも言われています。吉祥寺は「住みたい街No.1」にも選ばれる街ですが、駅近くはちょっと賑やかすぎるため、住むなら三鷹駅近くのほうが良いかな、と私も思います。

さて、その便利な三鷹駅。そのむかし、三鷹始発の鉄道が計画されていたことがあります。その名は「武州鉄道」。埼玉県蓮田にかつて実在した武州鉄道とは何の関係もありません。今回は三鷹始発の「幻の」武州鉄道についてお話ししたいと思います。

今、東京近郊で新しい鉄道が開通するということは、地下鉄以外ではあまりありませんが、昭和20年代には様々な計画がなされ、実際に建設が行われました。当時は地価が安かったこと、GHQにより大地主制度が解体されたこと、空襲で多くの「空き地」が生じたこと等々、さまざまな理由があったと思いますが、なにより戦後に人口が急増し、輸送力増強の必要に迫られていたことが最大の理由でしょう。

武州鉄道は、そんな背景を受けて計画されたもので、三鷹から小金井、小平、東大和、箱根ヶ崎、東青梅を通り、埼玉県の名栗村、御花畑(秩父市)まで達する60.32kmの路線です。鉄道敷設の目的としては、人口増加の武蔵野市西北部の輸送力増強、青梅の工業地化、秩父の観光開発とセメント輸送などが挙げられていました。ちょうど今の西武鉄道の新宿・秩父線と同じような路線と目的ですね。そう、まさに西武との競合路線であったのです。

武州鉄道の計画が公表されたのは1958(昭和33)年のことですが、西武鉄道はその1年前に、吾野〜西武秩父間の開設免許申請をしていましたから、ビックリ仰天。ちなみに西武としては秩父で止まるのではなく、軽井沢にまで路線を延ばそうと計画していました。軽井沢の開発は西武グループ総帥である堤康次郎さんの悲願でしたからね。

武州鉄道を計画したのは滝嶋総一郎という人。戦後GHQのスクラップを転売する商売で大当たり、一躍、経済界期待の星にまでのし上がった人物です。埼玉銀行(現在の「りそな銀行」)のバックアップを得て、資金41億5千万円をもって鉄道を敷設することを計画したのです。滝嶋さんは、もともと鉄道には詳しくない人でしたが、一代で西武グループを築き上げた堤康次郎にあこがれていたようです。その西武に正面から喧嘩を売るような計画を立てたところに、彼の「生きざま」を見るような気がします。すでに秩父線の申請中であった西武の向こうを張るように、1959(昭和34)年、東京陸運局に正式な鉄道開設免許申請を出したのです。さらに申請直後、「白雲観光」という会社を設立。141万uの土地を取得し、準備は着々と進められました。

西武鉄道は大あわて。武蔵野地区での西武バス既設路線との競合を理由に、武州鉄道反対の陳情書を提出。また敷設経費の高い山岳鉄道にもかかわらず、武州鉄道の資金計画が小さすぎることも問題にしました。実際、西武秩父線は吾野−西武秩父間ですら80億円かかりましたからね。42億円足らずでの三鷹−秩父間の建設は、無理であったと思います。それに武州鉄道は、なんとモノレールにする計画もあったそうですから、これは資金的には無謀としか言えないようです。モノレールへの計画変更は、その当時、東京オリンピックに向けて免許申請中であった、羽田の東京モノレールが、世間で話題になっていたことに刺激されたのでしょうか。

計画の困難さが表面化しつつあった頃、戦後のし上がった人物に共通の、強気な政界工作をしていた滝嶋さんに、埼玉銀行は不安感を持ち始めます。モノレールの話しも急でしたし、始発駅を三鷹ではなく(滝嶋さんがビル経営していた)吉祥寺に移すという計画変更も、滝嶋さんは勝手に打ち出していました。不信感を募らせた埼玉銀行は、ついに1960(昭和35)年、武州鉄道発起人会から離脱してしまいます。滝嶋さんは白雲観光社長の座から追放される事態にまで至りました。さらに翌1961(昭和36)年2月には、西武鉄道に秩父線開設の免許が交付されてしまい、とうとう滝嶋さんは発起人会からも追い出され、武州鉄道計画は完全にアウト、という状況に陥りました。

ところが。
西武に免許が下りた5か月後の7月、武州鉄道にも開設免許が下りたのです。申請からの時間も短いですし、なにしろ西武との競合路線の免許交付はあまりにも不自然。世間は首を捻ったのですが、なんと免許交付の翌日、青梅土地区画整理組合との贈収賄容疑で白雲観光関係者が逮捕されるという急展開。さらに滝嶋総一郎さん本人をはじめ、武州鉄道発起人に名を連ねた大映の永田雅一社長など、財界人も続々と逮捕されるに至りました。

青梅の事件はあくまでも発端で、検察当局としては滝嶋さんと運輸大臣との贈収賄事件が本丸でした。免許を得るために、岸内閣の楢橋渡運輸大臣に、2450万円の賄賂を贈っていたのです。10月までに、楢橋元運輸大臣はじめ、政財界の有名人18名が逮捕される、一大疑獄事件に発展。最高裁まで争われ、滝嶋さんは懲役2年の実刑判決を受けることになりました。開設免許は残っていたので翌年1962(昭和37)年に武州鉄道株式会社が設立されたのですが、この事態では開業は絶対に無理。財界も資金を提供せず、計画は全くとん挫してしまい、結局1975(昭和50)年に免許は失効し、武州鉄道計画は完全に消滅しました。

ちなみに。
滝嶋総一郎さんが、当初計画を勝手に変更して、武州モノレールの起点にとも考えた吉祥寺のビルは、1959(昭和34)年開業した6階建ての「吉祥寺名店会館」。吉祥寺初の大型商業施設で、屋上の巨大な鉄塔オブジェが名物。遠く武蔵境からも見えたそうです。その後解体され600坪の土地が売りに出され、1974(昭和49)年、東急百貨店吉祥寺店として生まれ変わりました。

いま東急百貨店屋上に「吉祥寺観音」という小さなお堂があり、由来書を見ることが出来ます。

「吉祥寺観音の由来」
吉祥寺観音は、昭和三十四年三月に埼玉県入間郡名栗村にあります「白雲山鳥居観音」様から旧吉祥寺名店会館屋上に「この地を・この地の人々を・またこの地に集まってくださる方々を見守って頂きたい」の願いのもとに迎えられた観音様です。
 ご本尊様は「不空羂索観世音菩薩様」十七観世音菩薩のお一方で大きないつくしみの心を持って、生まれる苦しみ・死ぬ苦しみの中でもがき苦しんでいるすべての生きとし生けるものを救い助けると言う広く大きな心を持ち、お地蔵様と並び、宗派を超え私たちのすぐそばに居てお見守りくださる仏様です。
 この観音様は名栗村出身で、当時埼玉銀行(現 埼玉りそな銀行)の頭取でありました故 平沼弥太郎(号、桐江―とうこう)氏が心をこめて彫られたものです。「鳥居観音」様はお母様の遺志を継ぎ、万人(宗派に関係なくすべての人)をお見守り頂きたい、苦しみから救われて欲しい そして訪れて頂きたいとの願いが込められて立てられた寺院です。また、この東急百貨店吉祥寺店におまつりしてある観音様もこの地を訪れる方々に幸せをとの願いが込められております。(以下略)

昭和34年という年、埼玉銀行、名栗村、白雲……。すべてが符合しますね。なんとなく「きなくさい」観音様ですね…。

その吉祥寺近辺の鉄道新設、対抗する西武鉄道の踏ん張りには、別の話があります。
長くなりすぎましたので、そのお話しはまた後日に。





 三鷹と国際平和
     <2009/10/10>

 昨日、三鷹へ行って参りました。
実は、私と密接な関係にあるお店が、本日10月10日にグランドオープンとなるのですが、それに先だって、「関係者」ということで御招待くださったのです。細長い「ウナギの寝床」を地で行くようなお店ですが、これが何ともお洒落な作り。2階建てで、1階には50型の液晶テレビ、2階には150型相当のプロジェクションテレビがあり、どのド迫力に圧倒されました。ここでスポーツ観戦をしたら、熱くなるでしょうね〜〜〜。

さて、その三鷹駅。
南口が三鷹市で、北口が武蔵野市であることはあまりにも有名。駅の正式な所在地は、一応、三鷹市ということになっているそうです。まぁ「三鷹」駅なんですからね。目黒駅は目黒区ならぬ品川区にあり、品川駅は港区にある、ってややこしいですが、三鷹は三鷹市でスッキリ。

南口が、駅前通を中心として、それなりに商業施設が並び、繁華街を形成しているのに対し、北口は駅ビルも昭和レトロっぽいところに加えて、商業施設がきわめて少なく、「繁華街」と呼べる雰囲気はほとんどありません。

北口が「静かな雰囲気」であるのは、主に二つの理由からです。
まず、北口一帯が、Tさんという大地主の個人所有地であったこと。ご相続に関する係争が長引いたとかで、駅前一等地の広大な地面が、長い間「梅林」になっていました。なんとも贅沢?な土地利用状況が続いていたわけですが、ここに関しては現在、高さ103.7mのツイン・タワーマンション「武蔵野タワーズ」が建設中。これが来年の春に完成すれば、商業施設も充実し、周辺の細い道も広くなり、三鷹駅北口はまったく印象を変えるような気がします。

北口の雰囲気を形成しているもうひとつの理由は、武蔵野市が三鷹駅北口を、緑町(三鷹駅の北方)にある市役所の表玄関、ある意味「武蔵野市の顔」と位置づけた都市マスタープランを立てていることです。そのため、乱開発でゴチャゴチャとした街並みになることを避け、あくまでも上品なイメージを保ち続けています。北口側に、横河電機、すかいらーく、飯田産業、松屋フーズ、ティアック、名糖運輸など大きな企業の本社があることも、ビジネス街のイメージを高めることにつながっているかもしれません。

北口の雰囲気を高めているのが、駅前ロータリーの植栽と、堂々とした彫刻作品。この「武蔵野市世界連邦平和女神像」は、1969(昭和44)年に建立されたものです。「世界連邦」とはいかにも壮大な、まるで今流行?の「友愛」みたいなイメージですが、武蔵野市は1960(昭和35)年に「世界連邦宣言」を出しています。といっても、「世界連邦」の構想は、武蔵野市が勝手に始めた運動ではなく、世界的なもの。第二次世界大戦の惨禍を反省し、1947(昭和22)年、スイスのモントルーというところに23か国51団体が集まって、いわゆる「モントルー宣言」を発表しました。「世界が共通の法律や議会や警察をつくり、世界全体が力を合わせて、地球に住むすべての人々の生活と安全を守るための組織、世界連邦をつくる」という、人類の理想を示したものです。

世界連邦のことを詳述することは拙ブログの主旨ではありませんから割愛しますが、国内多くの市町村同様に、武蔵野市もこの運動に参加協力しているのです。現在、1都2府25県350市町村が世界連邦建設に賛同し、その実現のために努力するという決議をしています。三鷹北口の銅像もその一環のもの。たてがみを翻した駿馬にうち乗る女神。右手は天を指し、左手に平和の炬火をかかげるその姿は、見る者の心を打ちます。また台座の中には、空襲で亡くなった、中島飛行機武蔵製作所を初めとする、多くの犠牲者がまつられています。この像の作者は、彫刻家「北村西望」さん。

北村西望(きたむらせいぼう1884-1987)といえば日本を代表する彫刻家であり、長崎の「平和祈念像」の作者としてよく知られています。どうしてその西望の作品が三鷹駅北口にあるかといえば、それは彼が武蔵野市の名誉市民であるから。西望は1953(昭和28)年、井の頭公園の一部を借りてアトリエを開き、そこで「平和祈念像」を制作しました。平和祈念像は1955(昭和30)年に完成、西望は1958(昭和33)年に文化勲章を受章し、1962(昭和37)年、武蔵野市の名誉市民第1号に選ばれたのです。

西望のアトリエは、井の頭自然文化園(動物園)の「彫刻園」に残されています。彼はアトリエの建物や、平和祈念像の原形など数多くの作品を東京都に寄贈し、都は1958(昭和33)年に一般公開しました。これが現在の彫刻園に発展したわけです。三角屋根が特徴のアトリエは「アトリエ館」として残り、さらに彫刻館A館B館とふたつの建物が増設され、100点にも及ぶ、圧倒的迫力の西望作品を目にすることが出来ます。ともかくその作品の威容は、見ていただくほか表現しようがないもの。特に実物大の(力道山に似ていると噂された)平和祈念像の原型の迫力はもう……。アトリエ館には彫刻に使われた道具や木片もそのまま残っていて、西望の制作活動の片鱗をたどる「よすが」にもなっています。
 彫刻館B館では、毎年「秋のコンサート」が開催されています。今年のタイトルは「‘音’を楽しむ」だそうです。紅葉した木々と立ち並ぶ屋外彫刻。そこに流れる妙なる調べ。いやもう、「文化都市武蔵野」に実に似つかわしいですね。

ところで芸術家というのは長生きの方が多く、北村西望も1987(昭和62)年に亡くなりましたが、御年102歳だったそうです。

残念ながら今も世界では、いっときも戦火が止むことがありません。昨日、アメリカのオバマ大統領がノーベル平和賞を受賞するというニュースが流れました。彼は世界連邦運動に対してどういうスタンスであるのでしょうか。今や世界を二分する勢いのアメリカと中国が積極的に関わらない限り、人類の理想とも言えるこの運動が結実することは、遠い夢のまた夢、と言えるでしょう。理想実現への道のりは、遥かに遠く険しいものですが、三鷹駅北口を利用するたびに、そのことに思いを致したいものです。