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 阿佐ヶ谷


 都会のオアシス
     <2009/7/15(水)>

 たまに行く立ち飲み屋さんでよく見かける若者がいます。
その界隈のお店のそこここに出没し、大変真面目な人柄でどの店の常連客からも愛されている、九州出身の好青年です。

その彼が最近、釣りに凝っているとのこと。
釣りと言ってもハマちゃんのように本格的なものでもなく、また松方弘樹みたいにカジキマグロを追ってクルーザーを駈せたりするものでもありません。
(ただ彼は小型船舶一級免許を持っているとかで、夢は松方弘樹?)
簡単に言えば釣り堀での釣りです。しかも貸し竿とエサ付の。

中央線沿線で釣り堀と言えば、市ヶ谷の「フィッシュセンター」でしょう。
平日の昼間、仕事先に向かう中央線の車内から見ると、いかにもノンビリと釣りを楽しむ皆さんの幸せそうな姿が目に入ります。いや、人間かくありたきもの、なんて思います。
九州の彼も、ここに通っているそうです。
本人の弁によれば「精神修行」とのこと。
釣れれば釣れるなりに、釣れなければ釣れないなりに、さまざまな想いがよぎるそうです。
なかなかの大物と見ました。

さて、彼は中野在住なのですが、二つ先の阿佐ヶ谷にある釣り堀をご存じありませんでした。
「え?阿佐ヶ谷なら行くの簡単ですよ〜」
知らない方、多いようです。
市ヶ谷フィッシュセンターのように見晴らし(見晴られ?)の良い立地とはおよそ無縁で、マンションと住宅のド真ん中に立地しているその釣り堀は「寿々木園」。きっと鈴木さんの経営なんでしょうね。

なにしろ駅から近いです。
改札出てから3分くらいでしょうか。南口を出て、ロータリーの向こうを右(西)に進んだ先、住宅と商店が入り混じった道にいきなり「つり堀」の看板が出て気がつきます。
営業時間は午前8時から日没まで。金曜定休日。
気になる料金は、貸し竿&餌付きで1時間550円です。市ヶ谷よりはずっと安いですね。
鯉がいる大きめの堀と、金魚がいる小さめの堀があります。
以前は今よりずっと敷地が広く、もうひとつヘラブナ池もあったのですが、何しろ駅徒歩3分の好立地。規模縮小もやむなしでしょう。それでも残っただけ有り難いことです。

以前、阿佐ヶ谷のホームから見える大きな桐の木がありました。
桐の木というのはふだんは気がつかないのですが、五月頃に美しい淡紫色の花が咲き、なんとも雅やかな風情があります。
ところが昨年ホームから見えなくなり、どうしたのかな?と思っている間もなくニョキニョキとマンションが建設されました。まさに駅前マンションで、かなりの高額にもかかわらず、ほぼ即日完売の人気だったそうです。私有地、しかも商業地ですからこうした開発もやむを得ないとは思います。
でもちょっと、中杉通りの街路樹が美しい阿佐ヶ谷駅南口の雰囲気が変わってしまった寂しさは感じます。

釣り堀も固定資産税などを考えたらもっと別な土地利用も考えられるのでしょうけれど、都会のオアシスとしてこうして残していただけるのは、第三者としては実に有りがたいことだと思いますね。
金魚池の釣果は3尾まで持ち帰ることが可能です。
中には「らんちう」のような高級金魚も釣れるらしいですから、これは彼に詳しく教えてあげなきゃね。





 女神の報酬
     <2009/7/18(土)>

 本日、話題の映画『アマルフィイ女神の報酬』の劇場公開日でした。
さすがにフジテレビ開局50周年記念映画ということで、8チャンネルでは番宣企画が目白押しです。『ルーキーズ』も、TBSがいささかやりすぎなほど宣伝していましたね。最近の映画はテレビ局とタイアップが多いので、どうもそういった風を感じます。

で、それが中央線と何の関係があるのか?
それはですね。
『アマルフィイ女神の報酬』の出演されている女優、天海祐希さんは中央線人なのです。
やや、いくらなんでもそれは我田引水すぎますか。
天海さんは浅草のご出身です。
子供のころから宝塚女優を目指していた彼女は、中学を卒業後そのまま宝塚音楽学校に進学する希望であったらしかったですが、お母様が
「青春時代の思い出は大切。ふつうの当り前の高校生活を経験すべき」
とアドバイスされ、
「では高校生活の花、修学旅行までは」
ということで進学されたのです。
進学先は、阿佐ヶ谷と高円寺の中間にある「菊華高校」(女子校)でした。

浅草の彼女がなぜ菊華なのか。なぜ阿佐ヶ谷なのか。
聞くところでは
「いちど電車通学というものを経験したかった」
とのことですが、浅草から見て電車に乗る女子高は、城東地区にも城南地区にもいくらでもあったはず。
それをわざわざ遠い杉並区の女子高に進んだのは、
「中央線で通学してみたかった」
に違いない、と私は睨んでいます。
いえ、もちろんこれは単に私の希望的観測にすぎませんが(笑)。
天海さんのご実家が浅草のどこかは存じませんが、上野に出て山手線から神田乗換中央線かなぁ。あるいは伏兵の営団地下鉄(現東京メトロ)かな。浅草線で日本橋まで、そこで東西線に乗り換えれば、そのまま阿佐ヶ谷まで行けますからね。この場合、中野以西が中央線乗り入れになります。
なんとまぁ、余計な御世話の推測(苦笑)。

実は、菊華高校はいまはありません。
2000年4月に男女共学化し、「杉並学院高校」に改名されました。
そうです!
あのゴルフの石川遼くんが在学していた高校として、話題となった高校です。遼くんはどうして杉並学院を選んだんでしょうね?
まさか「電車通学したかった」わけでもないでしょうし(笑)。
菊華の時代からクラブ活動に熱心な学校でしたから、ゴルフに精進するには絶好の高校だったのかもしれませんね。

杉並学院の良いところが、雨にぬれない通学路。
それは、駅からの道のりのほとんどが中央線の高架下だからなのです。高円寺に行くにしても阿佐ヶ谷に行くにしても、ずっとガード下(の飲み屋街・苦笑)。
元女子高としては飲み屋街の通学路は「……」かもしれません。公式な指定通学路としては、高架下を指定してあるものの、高円寺駅ちかくの飲み屋ゾーン「高円寺ストリート」、阿佐ヶ谷駅近くの飲み屋ゾーン「ゴールド街」は迂回して指定されているとか。
それにしましても、雨にぬれないのは大きな利点ですね。

いま全英オープンでタイガーウッズ以上の成績をあげて頑張っている石川遼くん。
そして『アマルフィイ女神の報酬』での演技が注目され高く評価されている天海祐希さん。
ふたりの中央線人のさらなるご活躍を願っております。
(それにしてもこの二人を中央線人に認定するのはいくらなんでも無謀かな・笑)





 阿佐ヶ谷文士村
     <2009/8/10(月)>

 中央線沿線の各駅に住む若者たちをカテゴライズして

 中 野  → 売れない芸人
 高円寺  → 売れないミュージシャン
 阿佐ヶ谷 → 売れない小説家&漫画家

だと分類した意見がありました。
なんとなく納得しちゃいますよね。この中で中野と高円寺はパフォーマンス系ですが、阿佐ヶ谷は文芸系という大きな違いがあります。「形が残らない文化」と「形が残る文化」の違いとも言えるでしょう。メインのお祭りも、高円寺はパフォーマンス系の「阿波踊り」、阿佐ヶ谷は見て楽しむ「七夕祭り」。
このように、中野&高円寺と違う「におい」が阿佐ヶ谷にあるのは事実のようですね。良くも悪くも「大人の街」という印象があるのが阿佐ヶ谷、なのではないでしょうか。

どうしてそうなったのか。
ひとつの理由として「阿佐ヶ谷文士村」という、その名も重々しい歴史があるからのような気がします。

「文士村」というのは、文士(小説家や評論家など)たちが多く集まり住んでいた地域を指す名称で、有名なのが大田区の「馬込文士村」。それから北区の「田畑文士村」、そして阿佐ヶ谷文士村などです。いずれも大正末期から昭和初期にかけて、例によって関東大震災で市内から近郊に移住した、多くの「文士」たちが住んでいた地域です。

交通・通信手段が未発達な当時、「文士」たちが一定の場所に集まっているのは便利なことでした。若い文士の大抵は貧しく、さまざまな交際に交通費は使えません。徒歩圏内で集まって、「取材」「情報交換」と称しては、珈琲、酒、はたまた駄弁、トランプに麻雀、ダンスとラヴ(恋愛・内縁、結婚そして離婚)にうつつをぬかし、なんともデカダンスな生活を送っていたのです。
デカダンスと言っても、まったくの無頼、無意味ということでは決してなく、その交流を創造の泉に変えて、新たな創作につながった例は枚挙のいとまがありません。こうした仲間で「同人誌」を出すことが、昭和初期の文壇で大流行になりました。まさに「知的と痴的は紙ひとえ」というところですかね(笑)。

馬込・田畑・阿佐ヶ谷の各文士村ですが、在住していたとされる文士の名前は、かなり重複しています。
それは文士に限らず、当時の東京での住宅事情が「ほとんど賃貸」であり、何回も引っ越すのが当たり前であったことによるでしょう。何かあるとすぐに転居する「引っ越し魔」が多く、文士の世界でも、リーダー的存在が転居すると、まわりの連中もぞろぞろ移転する、ということになったのです。
文士村に共通なのが「家賃が安いエリア」であることで、それは何をおいても欠かさない条件。いずれも東京近郊の(当時の)「田舎」であり、ほどほどに交通機関が発達している場所でした。通信手段の少ない当時、やはり出版社にも近くないといけませんからね。

この中で、阿佐ヶ谷文士村は新しいものでしょう。
そもそも「阿佐ヶ谷文士村」なる名称は、1993(平成5)年に、杉並区立阿佐ヶ谷図書館がオープンした際、名付けられたものだそうです。
とはいえもちろん、何もなかったのではなく、戦前から文士たちの交流組織はありました。
それが「阿佐ヶ谷将棋会」です。

阿佐ヶ谷将棋会は、文字どおり将棋の愛好会。会と言うより「グループ」「仲間」といったようなものでしょう。昭和2年に阿佐ヶ谷に越してきた井伏鱒二を中心に、火野葦平、河盛好蔵、三好達治、青柳瑞穂、木山捷平、外村繁、古谷綱武、太宰治といったメンバーが主な参加者でした。昭和4年ころにスタートしています。菊池寛が文芸春秋社で文壇将棋大会などを催すなど、当時は文士に将棋趣味が広がっていたようですね。

中央線沿線の当時の様子を井伏鱒二は『荻窪風土記』に描いています。

「私は昭和二年の初夏、牛込鶴巻町の南越館といふ下宿屋からこの荻窪に引越して来た。その頃、文学青年たちの間では、電車で渋谷に便利なところとか、または新宿や池袋の郊外などに引越して行くことが流行のやうになつてゐた。 新宿郊外の中央沿線方面には三流作家が移り、世田谷方面には左翼作家が移り、大森方面には流行作家が移つて行く。それが常識だと言ふ者がゐた。 関東大震災がきつかけで、東京も広くなつてゐると思ふやうになつた。ことに中央線は、高円寺、阿佐ヶ谷、西荻窪など、御大典記念として小刻みに駅が出来たので、市民の散らばつて行く速度が出た。」

そして当時の雰囲気は・・・

「新開地での暮しは気楽なやうに思はれた。荻窪方面など昼間にドテラを着て歩いてゐても、近所の者が後指を差すやうなことはないと言ふ者がゐた。貧乏な文学青年を標榜する者には好都合のところである。」

なにか、まさに「中央線文化」そのものの表現のようにも感じますね。

阿佐ヶ谷将棋会もドテラOKの雰囲気があり、そもそも将棋の出来ない人(二次会だけ参加組)も大手を振って参加していました。よりデカダンスな馬込文士村と比べると、洗練された雰囲気のようです。これは阿佐ヶ谷には、太宰治のような「地方の名士の子弟」が多く、現在は貧しいながらも経済的裏付けがある、といった、独特のステージにたつメンバーが多かったことにもよるのでしょう。震災後、中央線沿線に華族や富豪の別荘が多くなったことも影響しているように思います。

当時は世界大恐慌を発端とする、景気どん底の世相。文学界ではプロレタリア文学がハバを利かせていました。阿佐ヶ谷文士会のメンバーは、どちらかと言うと左翼とは一線を画す「芸術派」と呼ばれる人が多かったようですが、そんなあたりにも彼らの「育ちの良さ」が現れているのかも知れません。政治思想とは縁遠い彼らの作品は、時代に合わずに一向に売れず、経済的にはかなり苦しかったようです。

そんな中で、井伏鱒二は青年文士たちと「阿佐ヶ谷のシナ料理屋ピノチオ」を会場として集まりを持つようになったのでした。ピノチオは、阿佐ヶ谷駅北口の西友ストア前あたりにあったといわれます。井伏によれば「ピノチオの料理は、シナ蕎麦十銭、チャーハン五十銭」だったとか。チャーハン高いなぁ(笑)。

こののちファシズム期を迎えたころ、左翼文学は徹底的に弾圧され、その結果、いままで日蔭に泣いていた芸術派文学に日が当たるようになります。「芥川賞・直木賞」といった文芸賞が創設されたのもこのころ。30代半ばとなって脂の乗りきった井伏鱒二は積極的に創作に励み、周囲のメンバーもそれに触発されるように文芸にいそしみました。将棋をする者しない者。酒を飲みながら語り合い、励まし合っていた様子が目に見えるようです。ハイキングや遠足も楽しんだ充実した日々も、そう長くは続きませんでした。ついに日本は戦争に突入していったのです。

戦後、「阿佐ヶ谷将棋会」は「阿佐ヶ谷会」として再発足します。会の活動はなんと昭和47年まで続いていたというから驚き。
「阿佐ヶ谷会」のことは、『阿佐ヶ谷会 文学アルバム』青柳いづみこ・川本三郎(幻戯書房)に集大成されていますので、ぜひご覧になってください。amazonでも買えますよ。

区立阿佐ヶ谷図書館には「阿佐ヶ谷文士村図書コーナー」が設けられています。ここには「阿佐ヶ谷文士マップ」が展示されていて、往時の文士たちの居住状況がわかります。
「阿佐ヶ谷将棋会」に参加していなかった著名な文士をあげますと・・・
阿佐ヶ谷駅の北口には、北原白秋・横溝利一・岸田国士、南口には石川達三・小林多喜二・川端康成・三木清・石井桃子……。
いや、そうそうたる面々ですね。
以前、阿佐ヶ谷駅南口の商店街「川端通り」の話題で、「川端康成の旧宅にちなんだわけではありません」としましたが、実は川端康成は近所(現在の高円寺南)に、一時期住んでいたことは事実のようです。

さて。
阿佐ヶ谷駅南口に住んでいた石井桃子。『ノンちゃん雲に乗る』で有名ですね。
彼女は1940(昭和15)年に出版社「白林少年館」を興し、同じ年に岩波書店から『クマのプーさん』の翻訳を刊行しています。まさに現代に通じる児童文学・翻訳文学の星でした。
当然、近所の文士とも交流があり、井伏鱒二に、ロフティングの『ドリトル先生』シリーズを紹介し、大いに気に入った井伏の手により『ドリトル先生アフリカゆき』が「白林少年館」から翻訳刊行されることになります。

人間の医者であるドリトル先生が、オウムの「ポリネシア」から動物語を習い、それを駆使して世界各地で活躍(?)する童話は、私も子どもの頃、大いに熱中させられたものです。今の若い人たちも読んだことがある方、案外いるんじゃないですか?

翻訳本が刊行されたのは1941(昭和16)年のことですが、太平洋戦争開始の年ですよ、これ。ロフティングはアメリカ人。ドリトル先生はイギリス人の設定なんですから、まったく時局に合わないと言うべきでしょうね。井伏ははじめて読んだとき「日本の児童文学は現実臭さが強すぎる。こういう夢のある作品は良いね」と大いに気に入ったそうです。
このあたり、政治や思想、戦争といったものとは全く距離を保っていた、フリーハンドの「中央線的文化人」井伏鱒二、そして石井桃子の面目躍如といったところでしょうか。

余談ですが、井伏鱒二はアニメ「機動戦士ガンダム」のファンでした(なんと!)
もともと、ガンダムの制作者が、井伏の原爆被災を描いた作品『黒い雨』の影響を受け、リアルな戦争描写をガンダムシリーズを導入しました。それを知った井伏はガンダムを鑑賞して大いに感銘を受け、それから熱心なファンになったそうです。
散歩の途中、ネコが目の前を素早く横切ったとき、井伏が「は、速い、シャアか?」と呟いたというのは非常に面白いエピソード。井伏先生、本当にこだわりなく、お互いの価値観を認め合うことの出来る、まさに中央線人だったのですねぇ。

『ドリトル先生アフリカゆき』が刊行されて間もなく、白林少年館は倒産してしまいます。そして、とうとう井伏も陸軍に「従軍文士」として徴用されてしまいました。1年ほどシンガポールに駐在し、現地で日本語新聞の編集に携わり無事帰国。
戦後、井伏は再び『ドリトル先生アフリカゆき』を岩波少年文庫として刊行。以降シリーズ全巻が翻訳・出版され、現在も刊行され続けています。不朽の名著の一つ、と言えるでしょう。

最後にまたまた余談。
子どものころ「ドリトル」という先生の名前が気になりました。
なんとなく変な名前に思えたのです。
英語ではDolittle。これを直訳すると「働きが少ない」「役立たず」みたいな意味になり、「Doctor John Dolittle」は、まぁ「やぶ医者ジョン先生」といったところ。
それではあんまりだということで、そのまま「ドリトル」と訳したそうです。

英語圏には「Doolittle」(ドゥーリットル)という姓があり、ロフティングは、これをもじって(oを一つ減らして)「Dolittle」としたのでしょう。
 日本人が知る「Doolittle」さんで、一番影響の大きいのが、ジェームズ・ハロルド・ドゥーリットル(James Harold Doolittle)。1942年4月18日、はじめて日本本土空襲を敢行したアメリカ陸軍の軍人です。日本側では50人の死者と家屋262戸の被害が出ました。攻撃側の犠牲の割に日本の被害が少なかったので、 日本の軍首脳は「まさにDo-little。大した働きがないな」と馬鹿にしたとか。けれどこの空襲は、帝都被災を深刻に考えた、山本五十六連合艦隊司令長官がミッドウエイ攻撃を決意することにつながります。そしてミッドウエイ海戦が日本の運命を変えたことを思うと、「Do-little」どころか「Do-big」な攻撃であったと言えるでしょうね。
また、この空襲を受けて帝都防空を強化すべく、陸軍は成増飛行場を建設。これが現在の練馬区光が丘団地になっています。

今回は余談に次ぐ余談でしたね(笑)。





 たなばた
     <2009/8/12(水)>

 高円寺は「タナボタ」で駅が出来ましたが、阿佐ヶ谷は「タナバタ」で地域興しをしています。そう、阿佐ヶ谷のアーケード商店街「パールセンター」の「七夕まつり」が、今年は8月5日(水)から9日(日)まで開催されました。

『阿佐谷七夕まつり50周年特別記念誌』(2003)によると、

「私ども阿佐谷パールセンターの街は、七夕まつりがあったからこそ発展してきたと言っても過言ではありません。戦後の混乱が続いていた最中に、まだ電気冷蔵庫が珍しい時代、当然冷暖房装置のない暑い盛りの8月にも、何とか自分たち阿佐谷の街に大勢の人を集めることができないだろうかと頭をひねって、私たちの先輩たちは日本全国の夏祭りを視察に行ったそうで、その結果阿佐谷の街には七夕まつりが一番ふさわしい催しだと結論して、無我夢中で昭和29年に第1回七夕まつりを開催したのでした。」

だそうです。
むかしから「二八(にっぱち)」と言って、寒い盛りの二月と暑い盛りの八月は客が来ないと言われていました。その夏場の営業不振打開策として、パールセンターが打ち出したのが、この七夕なわけ。そういうことで、「月遅れの七夕」になったわけなのですね。納得。

よく8月7日前後に七夕まつりをすることを「旧暦の七夕」などと言う方もおいでですが、それは明らかな誤り。旧暦(太陰太陽暦)は年によって新暦との日付がずれていきます。
 今年2009年の旧暦7月7日は、新暦では8月26日。
 来年2010年の旧暦7月7日は、新暦では8月16日。
2011年になると、まさに月遅れ状態に近くなって、新暦の8月6日が旧暦の7月7日です。

8月26日ともなると、もう秋の気配が漂ってしまいますし、夏休みの宿題が気になって、心おきなくお祭りに熱中できなくなるじゃないですか(笑)。
そういうことで、明治以降に便宜的に考案されたのが「月遅れ」(中暦)という考え方。
御盆の8月15日も「月遅れの御盆」であって、「旧暦の御盆」ではありません。お間違いなく。

そうそう。
新暦の7月7日は、よく雨にたたられます。
テレビのお天気お姉さんが
「今年は織姫と彦星が会えるでしょうか」
などと話してくれますが、新暦の7月7日は梅雨真っ盛りで星空なんか期待できないのは当たり前。今年の7月7日は旧暦では、閏5月15日。まだ織姫も彦星も、出かける準備などしていないはずです。
こういった季節の日付行事を、新暦で行うのはどう考えても無理があります。
まだ「月遅れ」で実施開催するほうが良いと思うんですが……。

阿佐ヶ谷七夕祭りのメインは、パールセンター全長700メートルの各店が、競って手作りする大きな七夕かざり。趣向を凝らしたハリボテです。昔からの薬玉式のものから、人気キャラクターもの(著作権とか大丈夫なのかな?)まで、実に様々なアイデアが盛り込まれた美しいかざり。これはぜひとも見る価値がありますよ。

それから、この祭りは何しろ商店街が主催しているわけですから、屋台の飲食物も各店が売り出しています。ま、中にはプロのテキ屋さんも混じっていますが、「賑やかし」にはそれもアリ。
商店街のお店もお祭り気分で採算度外視、フランクフルト1本100円、カキ氷150円、生ビール300円。
こういうのは実にウレシイですね。

観光地は「観光地値段」、お祭りは「ご祝儀相場」で、普段より高いのが当たり前になりがちですが、本当に地元に根を下ろし、地元と共に生きる商店街は、こういうときにこそ真価を発揮します。地元の人もそれで商店街に愛着を持ち、出来るだけ商店街で買い物をしようとする意識が育ちます。
実に良いことだと思います。

今年(2009年)で56回目。
たいしたものです。継続は力なり。
パールセンターの道は、もともと阿佐ヶ谷駅誘致に尽力した、古谷久綱代議士のために地元の人たちが作ったもの。普通の道でした。「阿佐谷南口本通り」と呼ばれていました。
中杉通りがなかった頃、阿佐谷南口本通りは、狭い道をバスやトラックの行き交う一般道路でした。中杉通りの出来た昭和27年、この通りを都内最初の歩行者専用道路としたことが、今の繁栄につながりました。そして2年後の昭和29年に、第一回七夕まつりが開催されたわけです。

七夕まつりの本家?は、もちろんご存じ、宮城県仙台の七夕。
8月6〜8日の三日間に、208.3万人の人出があったそうです。大したものですね〜。ちなみに阿佐ヶ谷は50万人ほどとか。それでもスゴイとは思います。

仙台の七夕も、実は阿佐ヶ谷と同じような動機で始まっています。1927(昭和2)年に、商店の営業促進のために始められたのです。
この年の3月、渡辺大蔵大臣の失言から始まった昭和金融恐慌は日本中を不景気のドン底に陥れました。当然ながらその波は仙台にも押し寄せ、消費は冷え込み、各店は営業不振に陥りました。その状況を打開するために考案されたのが、仙台七夕まつりだったのです。
戦後はさらに発展し、単なる商店街振興だけでなく観光イベントとして県外からもたくさんの観光客を呼び込むものに成長。今日の繁栄を見ます。

1970年(昭和45)年からは「動く七夕パレード」(現「星の宵まつり」)と「仙台七夕花火祭」が始まり、単なる「見るだけ」のイベントから、より「参加する」パフォーマンス的イベントが加わりました。さらに1983年(昭和58)年からは「夕涼みコンサート」(現「Starlight Explosion」)も開催。名実ともに、仙台の夏を彩る一大イベントになりました。

阿佐ヶ谷の七夕が、これからどのように変化し成長していくのか、楽しみです。





 夏の甘味
     <2009/8/18(火)>

 酒飲みということだけではないのでしょうが、ふだん、あまり甘いものを食べません。
嫌いと言うことでもないのですが、わざわざ食べようとは思いません。
けれども猛暑の夏には、「かき氷」と「水羊羹」だけは
「食べたいナァ」
という気になります。

アイスクリームより氷!
これは間違いないです。食後の清涼感が全然違います。
アイスクリームは、どれだけ高級なものであっても、後味はベッタリ濃厚で、乳製品の味が舌に残ります。けれども氷は、まさに溶けてお仕舞い。甘味と香りは残るものの、さっぱりしていて、「清涼」という文字そのものの気分になれます。それになにより、1杯食べると体がすっかり冷えて、ほてった体をクールダウン。日本の夏には氷でしょう、やはり。

水羊羹。これは貰い物(笑)。
今までの人生で、水羊羹を自分で買ったことは一度もありません。私だけでなく、多くの方がそうなんじゃないでしょうか。水羊羹は御中元、そういうイメージが頭にこびりついております。私の場合、素麺も御中元でして、自分で買うモノではなくなっております(笑)。たしかに素麺は保ちの良い物ですが、我が家には2年物・3年物の素麺がストックされております。いや、4年物もあるかな??

水羊羹は、「羊羹」含有量よりも「水」含有量が多いものが良いですね。
夏に食べるんですから、あまり濃厚なのはちょっと…。さっぱり清涼感を出すには、水気の多い水羊羹が良いように思います。御中元の水羊羹は缶入りですが、ごくごく小さい缶で良いのです。主食で食べるものじゃないんですからね。あくまでも冷茶の友。水羊羹の缶は小さいほどウレシイ。コンビーフの缶は大きいほどウレシイ(笑)。

あ、コンビーフの缶詰といえばノザキが有名ですが、通常は白と濃緑のツートンカラーの缶。このあいだ御中元にワイン仕込みの「熟成」というのと、「上級金ラベル」というののセットを戴いたのですが、これがもう、牛肉の旨味が凝縮された感じの仕上がりで、非常に美味しくて驚きました。しかし人間、舌が奢るのも良くないですね。美味しいと思っていた白緑缶だったのに、ひとたび金ラベルを知ると、なんとなく手が出なくなります。自分で買うこともないであろう金ラベルに舌が慣れないよう、あまり贅沢はしないようにしましょう。
けれども、常温保存で日持ちがして、おかずにもつまみにもなるコンビーフ。私に御中元を下さるのなら、水羊羹でも素麺でもなく、ぜひノザキのコンビーフセットをお願いいたします(笑)。

夏の甘味のお話しをするはずが、思わぬコンビーフ話に(苦笑)。これだから酒飲みはもう…。

阿佐ヶ谷に「とらや椿山(ちんざん)」という和菓子屋さんがあります。
赤坂の羊羹屋さん、「やらと」ならぬ「とらや」さんとは無関係。阿佐ヶ谷のお店は、創業者が「坂井寅三郎」さんだったから「とらや」なのです。 …が、そこはそれ、商標権うんぬんの難しさもあるのでしょう、いまは創業者の雅号をプラスして「とらや椿山」。創業は大正14年。老舗です。

明治36年に新潟から上京した寅三郎さんは、日本橋の和菓子店に奉公します。18歳という若い身空での東京暮らし。さまざまな誘惑もあったでしょうが、彼は「自分の店を持ちたい」という一心から、無為な遊びもせず、毎月のお給金のほとんどを堅実に貯金していきました。
 ある日、納品のため吉祥寺まで足を延ばした寅三郎さん。びびっと来るものがありました。
「これからは中央線だ。店を持つなら中央線の駅前だ」
なんと先見の明があったのでしょう。
それから注目していると、中央線に乗るたびに車窓から見える家々の数が増えていたのです。

阿佐ヶ谷駅は大正11年に開業しました。
駅は南口しかなく、阿佐ヶ谷駅開業に貢献した、古谷久綱代議士のために地元の人たちが拡げた細い道が青梅街道まで続いている、まだ何もないような駅前でした。
関東大震災後、中央線は爆発的に人口が増加します。阿佐ヶ谷も例にもれず、またたくまに発展し始めました。ちょうどそのとき、駅前に和菓子屋の居抜き店舗物件が出たことを知った寅三郎さん。すぐに手を打ち、ここに「虎屋菓子舗」が開業したのです。大正14年11月のことでした。

昭和に入ると、官吏や軍人、さままざまな文化人が阿佐ヶ谷周辺に移住してきます。舌の肥えた彼らに、虎屋の和菓子は大好評。大いに繁盛されたそうです。やはり寅三郎さん、目の付け所が良かったですね!
けれども戦時中は、物資統制令で甘味は制限されました。なかなか思うように和菓子を製造できない時代だったのです。そのあと建物強制疎開(空襲による火災をひろげないための措置)などで、大変な苦労をされたとのことです。

けれども阿佐ヶ谷の街を築きあげた一人とも言える寅三郎さん。戦後になると復興の中心的役割を担いました。まず幹線通りである「中杉通り」の新開通。これは1952(昭和27)年のことです。さらにこの中杉通りにケヤキの植樹を提案したのも、寅三郎さんだったとか。いま、阿佐ヶ谷駅から見るケヤキ並木は、それは見事で、「高級住宅地」という印象を深めてくれますが、それはこうした先人の先見性と努力によるものなのです。

こうして自動車の通行を中杉通りにゆだねた従来の「阿佐谷南口本通り」は、人がゆっくり安心して買い物が出来る商店街を目指し、同じ年の昭和27年に、都内初の「終日歩行者専用道路」の指定を受けました。さらに2年後に「七夕まつり」を開始したのは先日お話ししたとおりです。
時代にあった商店街を目指し、「阿佐谷南口本通り商店街」が「パールセンター」と改称したのは、1960(昭和35)年。駅前ロータリーとアーケードの完成に合わせてのことでした。アーケードは「雨に濡れた七夕飾りの色紙から、服に色が付く」ことを防止することが主眼であったとか…?

どこでもそうですが、街はその街を愛する人が育てます。
お店の人も、街を愛してこそ。街が発展すればお客は増えます。買うお客も、街を愛してこそ。街が発展すればお店の品ぞろえもよくなります。街の中にいる人間が街に愛想を尽かしている状態で、外側から体裁だけ整えるような「商店街復興策」は無駄な努力のように思えます。街を育てる努力と工夫は、愛があってこそ生まれる、と私は思うのです。

いま全国各地で「シャッター通り」復興が叫ばれていますが、単に郊外の大型SC(ショッピングセンター)を悪者にしても仕方がありません。SCだって地域住民に強制的に物を買わせているのではなく、地元民が進んでSCへ買い物に行っているんです。地元への「愛」が、需用者側・供給者側、双方に均等にあってこそ、初めて街が成り立つんじゃないでしょうか。
阿佐ヶ谷はじめ中央線沿線の各駅は、いまのところ大成功しているように見えます。私もですが、この沿線の街を愛するひとたち、街の継続的な発展を願うひとたちが、店・客双方にいることが、その成功の秘訣なんじゃないかなぁ…なぁ〜んて思うのです。

「とらや椿山」は、先年に駅近くからすこしパールセンターを進んだ先に移転しました。実にオシャレで清潔な、洗練された店構えになっています。
なにより巨大な栗饅頭で有名ですが、ここには店の奥にイートインがあって、この時期、店先には目にも爽やかな「氷」のノボリが、へんぽんと翻ります。もちろんさっぱりとした氷の味と涼味は最高。夏の阿佐ヶ谷散策には欠かせないスポットのひとつでしょう。

氷を食べながら表の商店街の人並みを眺めますと、みんな楽しそうな顔をしています。
商店街は、こうじゃなくっちゃ。
こんなにも素敵な商店街を生み育ててくださった、寅三郎さんはじめ、先輩諸氏の有り難さが、氷の味を一層引き締めてくれる、そんな気分も味のうち♪





 まさに「杉並」区
     <2009/9/2(水)>

 日中は暑くても、朝夕はめっきり涼しくなってきました。秋なんですねぇ。
今年の夏は、いまいちパッとしないと言いますか、夏らしくない夏でした。春先にエルニーニョ現象が見られたそうですから、これは世界的な気象なのでしょう。やはり春夏秋冬、「らしさ」が欲しいですね。夏はギラギラとした太陽と青空に入道雲。これから来る秋は、「錦秋」という雅語に似つかわしいような、見事な紅葉を望みたいものです。

紅葉は、急激に寒くなる気候により起きる現象です。
秋になり、日照時間が短くなったり気温が低下しますと、葉柄(ようへい)に水分を通しにくい組織ができます。そのことにより、葉で作られた糖類やアミノ酸類が木の幹に行かなくなり、葉に貯まった糖から新たな色素が生まれます。これが紅葉現象。寒さが急であればあるほど色づきが良くなるとかで、ヒートアイランドの東京都内では、なかなか見事な紅葉が見られないのは残念。
なんのために葉が色づくのか、実は未だに解明されていないそうです。果物や野菜が熟すと赤くなるのは、目立って鳥に食べてもらうため。それにより種子が遠くに運ばれることを狙ってのこと。子孫繁栄目的ですね。けれども、葉の場合はそうした意味もなく、これからは散るばかりじゃないですか。なんのために色気づくのか。死ぬ前にもうひと花咲かせる?老いらくの恋?……謎です。アブラムシに対する耐性うんぬんという説もあるにはあるそうなのですが。

よく「落葉樹が紅葉して、常緑樹は紅葉しない」と言われることもありますが、それは正確ではありません。紅葉する常緑樹もありますが、ごく一部分なので目立たないだけです。さらに「常緑樹は葉を落とさない」なんていう誤解をしている都会人の方も。常緑樹はだらだら一年中、部分的に落葉しているのであって、当然ですが葉の新陳代謝は1年サイクルです。

「松とか杉とか、針葉樹は紅葉しない」と思っている方も多いようです。
たしかに日本の針葉樹は紅葉しない種類が多いですが、わずかですが紅葉する針葉樹もあります。有名なのはカラマツとメタセコイア。カラマツは高山植物で、長野県や山梨県、北海道に多く見られます。私は時々、八ヶ岳〜清里に出かけますが、カラマツの紅葉の様はそれは見事で、しばし見とれてしまいます。冷涼を好む樹種ですので、都内で気軽に鑑賞できるところは少ないようです。それに対してメタセコイアは、都内でもあちこちで見ることが出来ます。

阿佐ヶ谷駅の高架プラットフォームから南口ロータリーを見ますと、大きな木が5本植えられているのに気がつきます。あれがメタセコイア。植樹されてから、かれこれ20年以上たって、いまや杉並になくてはならない存在にまで成長しました。阿佐ヶ谷は杉並区役所の中央線表玄関ですから、まさに「杉並の入口」を彩るに相応しい雰囲気を醸し出してくれています。中杉通りのケヤキ並木も美しく上品ですが、メタセコイアも「シンボルツリー」として大きな存在感を示していますよね。

メタセコイアは和名「アケボノスギ」ですが、ほとんど「メタセコイア」で通用しています。メタセコイアは「生きている化石」とも言われますが、そもそもこの樹木が発見されたのは日本で、しかも化石としてでした。1941(昭和16)年に三木茂博士が化石として発見・発表し、「メタセコイア」と命名したのです。「メタ」というのは「変種」のことで、カリフォルニアなどで自生している「セコイア」の変種としての命名です。「アケボノスギ」という和名は木村陽二郎博士(杉並区在住)によるもの。すでに絶滅したと考えられていたのですが、その後に中国で同じ種類とされる樹木が現存していることが判明。「生きている化石」と、シーラカンスなみに騒がれて、世界各地に伝播されました。さらにその後、アメリカから苗木100本が日本に贈られ、その子孫が各地で繁栄しているのです。

杉並区は、その名に従って「区の木」として「杉」を指定しています。と同時にサザンカとメタセコイア(アケボノスギ)も「区の木」としたため、表玄関の阿佐ヶ谷駅前にもメタセコイアが植樹されました。杉よりもメタセコイアのほうが、大気汚染などの過酷な環境に耐える性質があるため、街路樹としてはうってつけだったのです。

さて、その「杉並区」という地名は、いつ頃からのものでしょうか。江戸時代初期に、成宗・田端両村(現在の成田東・西あたり)の領主が、領地の境界を示すものとして、青梅街道に杉並木を植えたのが始まりとされます。江戸時代に青梅街道を行き来する人は、「杉並まであと何里」など、道中の目印としていたそう。江戸末期の古地図には村名と並び、青梅街道のランドマークとして「杉並」が書かれていました。

現在の杉並区、江戸時代には20カ村で構成されていました。明治になって村をまとめることとなり、1889(明治22)年に、高円寺・馬橋・阿佐谷・天沼・田端・成宗の6カ村は「杉並村」に集約されました。どこの地名でもないアバウトなニックネームを村名にすることで、ありがちな村名綱引き合戦を防いだわけ。賢明ですね。この当時、すでに江戸時代の杉並木は消滅していたのですが、ニックネームとイメージは残っていました。

1932(昭和7)年、東京市が拡張されることになり、和田堀内・杉並・井荻・高井戸の4町が合併することになりました。東京府知事の通達「区名は区役所設置予定地の町名を採用する」に従い、4町中最も発展していた区役所予定地「杉並町」が区名になったのです。

ちなみに、この近辺では江戸時代、林業としての杉の植林が盛んでした。集積地の名を採った「四谷丸太」というブランド名もあり、吉野杉に似た良質な材木として珍重されたのです。今では信じられませんが、鬱蒼とした杉林が杉並区内に広がっていたそうです。その意味でも「杉並区」は、驚くほどピッタリとしたネーミングだったわけですね。けれども1915(大正4)年から2年続けて杉の大病虫害が発生、さらに関東大震災後、中央線沿線に流れ込む人口増大を受けて住宅地への転換がはかられ、杉林は減少しました。

秋が終わり冬になると、阿佐ヶ谷駅前のメタセコイアは巨大なクリスマスツリーに変身します。イルミネーションに彩られた鋭角三角形は、まさに幻想的な美しさで、中央線に乗る人たちの目を楽しませてくれます。
……アッという間にその季節になってしまうんだろうなぁ。

※2009年の10月から、都市型水害対策として、阿佐ヶ谷駅南口地下に巨大な貯水槽設置の工事がなされています。その巨大な防音建屋が駅前に存在し、駅のホームからメタセコイアを見ることが出来ません。工事は数年かかるそうで、しばらくは我慢です。





 地上の「天空の城」
     <2009/10/2(金)>

 今日も雨。
9月はほとんど雨が降らなかったですが、10月に入って秋雨前線活発です。
日本には「梅雨」と「秋霖」という雨季がある…と、大学の学部時代に地理学の恩師から聞きました。日本は、四季+二雨季=六季なのだと。今はその秋の雨季に入ったのでしょうかね。この雨季が終われば、一気に肌寒くなってくるはずです。

雨と言えば、過去たびたび水没してきた阿佐ヶ谷駅南口。もともと阿佐ヶ谷川とも呼ばれた水路でしたから、雨に弱いのはある意味当然。いま、その阿佐ヶ谷駅南口に巨大な構造物が建てられて工事中ですが、あれは下水道関係の工事(巨大地下貯水槽建設の防音建家)だそうです。かなり大規模な工事のようですが、これで完全に水に強い阿佐ヶ谷に生まれ変わってくれると良いのですが…。

さて、今日はその阿佐ヶ谷の話題です。
ここしばらく、演劇・映画関係のお話しをしましたが、阿佐ヶ谷だって負けちゃいません。阿佐ヶ谷にもちゃんと演劇・映画の施設があるのです。それも、ちょっと斜に構えた、大人っぽいイメージの阿佐ヶ谷に相応しい、なかなか凝った施設です。その名は「ラピュタ阿佐ヶ谷」。

中央線の下りで、阿佐ヶ谷駅を出てすぐ、進行方向右側(つまり線路の北側)の車窓から見ますと、なんと申しますか、一風変わった建物が目に入ります。それがラピュタ阿佐ヶ谷です。ゆるやかな円筒形でベージュ色の土壁のような壁面。土に穿たれた窓の風情は、まるで中国の少数民族「客家(はっか)」が福建省の山間に建てた「土楼」のよう。壁面に蔓草(蔦?)が這う様子は何とも渋い。けれども、お椀を切り取ったような銀色のバルコニー、屋上にはシャープな風車(風力発電機)というモダンさとのアンバランスな美。なんとも見る人の目を釘付けにする凝った作りです。最初は「あれは一体何をモチーフにしたものだろう」 と思いましたが、その名称を聞いて、なるほど納得。宮崎アニメ『天空の城ラピュタ』をイメージされていたのですね、たぶん(いろいろ調べていくと、必ずしもそうではないらしいですが、部外者から見ますと、あれはどう見ても「天空の城」ですねぇ)。

阿佐ヶ谷駅から歩くと2分たらず。途中の商店街が「スターロード」で、商店街と言うよりも飲屋街。お酒好きには堪えられない素敵なお店が建ち並んでいます。そこを北に抜けたところで、地上に降りた「天空の城」の威容を見ることが出来るでしょう。

ラピュタ阿佐ヶ谷のオーナーは才谷遼さんという方で、アニメ関連の出版社の社長さんだそうです。やはり宮崎アニメと関連があり、『もののけ姫』に関する本を出版したときに大いに売れたそうですが、その資金をもとに、そのとき売りに出ていた老朽ゲストハウス物件を購入。取り壊した敷地55坪にラピュタを建設されたとのこと。ときに1998(平成10)年。

この才谷さんは、もともと映画監督を目指していたときもあり、名匠、岡本喜八監督の下で働かれていたとか。そんなこともあり、ラピュタでは50〜60年代の、日本映画黄金期の作品を積極的に上映されています。また、現在のお仕事の関連からか、アニメ特集の時も。なにしろモーニング、デイタイム、レイトショー、と複数立てで、それぞれ異なるジャンルの作品を上映しており、その全てが「こだわり」のあるチョイス、というのがすごいところです。
※只今の上映作品は「疾風怒濤の忍術大合戦 CINEMA★忍法帖」、「昭和の銀幕に輝くヒロイン 雪村いづみ」。ね、こだわりがあるラインナップでしょ?

ラピュタの建物は、地下1階が演劇用小劇場「ザムザ阿佐谷」、1階はホール・ロビー、映画館「ラピュタ劇場」(客席50)が2階で、3・4階がフレンチレストラン「山猫軒」という構成です。インテリア・エクステリア、什器・調度品も凝りに凝り、外壁の土壁は淡路島だそうですし、お洒落な螺旋階段は線路の枕木のような廃材を上手に使っています。とにもかくにも「こだわり」を感じさせてくれることは間違い有りません。

レストラン「山猫軒」。多くの方はすぐに気がつかれると思いますが、その名前は宮沢賢治の『注文の多い料理店』に登場する店名です。同店のwebサイトを見ると
「生産者の顔が見える野菜や果物。
 国内で漁獲され、産地直送される新鮮な魚。
 抗生物質に頼らず、放し飼いで育った鴨と卵。
 (中略)
 料理の基本に忠実に、時間と手間を充分にかけた。
 郷土色あふれるフランス料理を作っています。 」
と、ここもあくまでも「こだわり」ぬいた食事を提供してくれるようです。

これだけ「こだわり」を出した経営が出来るのは、東中野のポレポレもそうですが、不動産そのもののオーナーだからでしょうね、やはり。経営を圧迫するのは家賃と人件費が双璧ですから、これをどう軽減するかに経営者は苦労します。その点で、家賃が掛からないと言うのは圧倒的な強みであり、ある程度自分の思うように出来る、フリーハンドさが保証されます。才谷さんもここまで来るには、相当の紆余曲折があったでしょうけれど、資金を獲得し、昔からの念願を叶える。理想の劇場を作る。それはまさしく「男のロマン」と言えましょう。そういう人生にあこがれる男性は多いはず。

ちなみに。
宮崎アニメで有名になった「ラピュタ」という飛行都市ですが、もともとは、スイフトの『ガリバー旅行記』(1726)第三章に登場しているものです。ラピュタ人は数学、天文学と音楽の研究に没頭する「学者馬鹿」のような人々が支配し、彼らは理論的美しさに欠ける実学を馬鹿にし、それらの観念を表現する言葉もありません。「現在」を「未来」への過渡期に過ぎない、と考え、「現実」を否定しています。未来のためには現在の圧制を厭わず、反乱する植民島があるとその上に滞留し、日光や降雨を妨げたり、時には降下して島を破壊します。へんてこな話しですが、そもそも『ガリバー旅行記』は、子ども向けの童話ではなく社会諷刺物語です。イングランドのアイルランド圧迫や、ニュートン学派の科学万能主義に疑問を呈した作品なのでしょう。
 …で、興味深いのはラピュタが(江戸時代の)日本の徳川幕府と交易をしている、と描かれていること。ガリバーがラピュタに居づらくなり、イギリスに帰還するとき、オランダ人に化けて日本を経由し、長崎からオランダ船でアムステルダムまで行って、そこからイギリスに帰った、とされています。日本では幕府に切支丹ではないかと疑われ、なんと「踏み絵」を踏まされそうにもなります。当時のイギリス人にとって鎖国の日本は、ラピュタに匹敵する「謎の国」だったのでしょうね。