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 中野


 武蔵野の中心地?!
     <2009/7/3(金)>

 中野は「武蔵野の中心」という意味で名付けられた、と言われています。さてこの「武蔵野」というのは一体どの範囲を指すのでしょう。
江戸を開いた室町時代の武将、太田道灌は、ときのみかど、後土御門天皇に「おまえの住むところはどんなところか?」と尋ねられたとき、
 「露おかぬ方もありけり夕立ちの 空より広き武蔵野の原」
と和歌を詠み答えました。
 確かに立川で雨が降っていても中野では降っていないときもありますから、「夕立の空より広」いことは間違いありません。太田道灌の支配地域はもっと広かったようですが、主要地域(生産力のある地域)としては、武蔵野台地と呼ばれる地域であったのでしょう。
wikipediaによれば武蔵野台地は「東京都区部の西半分と北多摩地域および西多摩地域の一部、そして埼玉県南部の所沢市や狭山市などの地域を含み、川越市は武蔵野台地の北端に位置する。」とのこと。これからすると中野駅のあたりは武蔵野の入口で、とても真ん中とは言えませんね。
 まぁ江戸時代は奥地は荒れ地や農耕地域で、それこそ当ブログで扱う三鷹あたりまでが、江戸市民による通常の「武蔵野」認識範囲であったとすれば、中野は「真ん中」というイメージなのかも。だいたい新宿からして田舎の入口というイメージだったんですからね。

「武蔵野の中央」という名誉ある名前を持ながら、中野は何とも不思議な街です。新宿から快速でわずか1駅4分。ほとんど都心と言える距離なのに、駅前の雰囲気は雑然として猥雑。なんとも垢抜けていません。かといって下町でもない。まさに「武蔵野の入口」という感じですね。

 地政学にクラッシュゾーンという言葉があります。二つの異なる文化圏が交錯する地域のこと。この混沌としたカオスの中から新しい動きや文化が生まれてくる、ということらしいです。京都文化と鎌倉文化の交錯する愛知県近辺から時代を変革させた3人の武将が生まれたとか、東西の食文化の交錯するトルコ料理が、中国料理・フランス料理と並ぶ世界三大料理に成長したのだとか、いろいろ言われます。
 難しいことは分かりませんが、中野はまさに都会文化と田舎文化の交錯地域という感じがします。その混沌たるところが中野の魅力でしょう。
 実際、飲み屋で見掛ける人々は実に多種多様です。たとえば新橋に行くとネクタイ族ばかりですが、ここ中野では現場の職人さん風もいれば銀行の管理職風もいる。若く美しいOLさんと、ニッカボッカの年輩の職人さんが隣り合って何やら議論を重ねている(もちろん今日初めて会ったのです)。外国人観光客も立ち飲み屋で、カタコトの英語を操る変な日本人達と仲良く飲んでいる。老若男女が分け隔てなく時間を共有できる。そこが中野の魅力なんじゃないかなぁ。

 いま中野というと「サブカルチャーの街」と言われて、ブロードウエイの「まんだらけ」などに注目が行きます。確かにそのとおりですね。あのブロードウエイのカオスっぷりはハンパじゃないです。その意味で中野の象徴はやっぱりブロードウエイでしょう。それからその東に広がる濃密飲食店街。混沌としつつも安全な街。外国人はたいてい喜びますね、こういう街は。





 中野>浅草(?)
     <2009/7/14(火)>

 先週の土曜、(例によりまして)中野駅近くの立ち飲み屋さんでコップ酒片手に無為に過ごしておりますと、そうですね、18:00頃でしょうか、こちらをチラッと覗いて通り過ぎようとされるカップルさん。

これまた(例によって)「さ、どうぞどうぞ、お席、空いておりますよ」とお誘いいたしますと、「そ、そうですか……」という感じで、お二人様ご案内〜♪
袖振り合うも多生の縁、ここであったが百年目(?)、飛んで火にいる夏の虫(??)
さっそく今宵の「カウンタカルチャー」開講でございます。
カップルさんは私のことを「お店の人かと思いました」とのこと。
ええ、その評は毎度のことでございます(笑)。

さて。
このカップルさんは浅草の、どうやら飲食関係のお仕事をされているらしいです。
この日はたまたま(特に目的もなく)中野に遊びに来られたとのこと。ちゃんとブロードウェイにも行かれたそうなので、サブカルチャーがお好きなのかもしれませんね。

で、「ちょっと食事をしようか」となり、とは言っても何せ900店はあると言われる中野北口飲食街。どこに行って良いのやら、ぐるぐる回ること3周。疲れてしまって、とりあえず無難に焼き鳥関係のお店に入ったそうです。食事メインなのでしっかり食べて、飲む方は軽く……とお店を出て、駅方向に歩いたところ、運悪く(?)私の網に引っかかってしまった、という流れ。
本日当店イチオシの「本マグロ刺身」をオススメしたものの(もうまるで店員)、「お腹一杯で」。
そりゃぁガッツリのあとですから、仕方がないですよね。
で、「じゃ一杯だけ」と……。

世の中、「一杯だけ」が一杯で終わった試しはありませぬ。
当然二杯三杯とお酒が進み、話しは盛り上がり、私も中央線の楽しさを熱を上げて語りました。
お酒というものは有り難いものでございます。
最初緊張されていた浅草カップルさんも、だんだんうち解けて、あれこれ話しが弾みます。
自然に「じゃぁやっぱりマグロ刺し、いただきます」となりました。

「こ、このマグロはすごいですね」
飲食店をされている(らしい)だけに、その品質の良さがお判りになるようです。
「これ浅草なら3倍、1500円はとりますよ」
いやぁ、うれしいなぁ。自分の奨めたものを喜んでくださることは何よりの喜びです。
「そうでしょう、ここは何でも美味しいですし、お値段も安い。ただ…ひとつ欠点が」
「え、欠点、何かあるんですか?」
「隣の見ず知らずの、変なオジサンに話しかけられてしまうことです」(笑)

そこへよく見かける常連さんがひょいと顔を出され、
「いま女房を待たせてるから、ちょっとだけ…。」
時間がないとのことで、白瓜の浅漬けをご注文。
「一人じゃ多すぎるから、みんなで食べましょう」
と、浅草カップルにお勧めです。
本当に時間がなかったようで、さくっと飲んで「じゃぁね」と疾風のように去って行かれました。
いや、江戸っ子だねぇ。イキだねぇ。私のように立ち飲み屋に何時間もいる無粋な客とは大違いです。

カップルの、寡黙な男性がぽつりと
「中野は良いですね。……浅草はダメです。」
と寂しそうな発言を。
「え?浅草は中野なんかよりもイキでいなせな江戸っ子の街なんですから、人情味あふれるお店が多いんじゃないですか?」
「いえ、観光客向け、一見相手の『その場限り』の店ばかりですよ。」
「そりゃぁ仲見世なんかはそうでしょうけど、観音様の裏あたりなら……」
「いえいえ、だめです。そちらもお上りさん向けですし、8時には閉まる店も多いです。中野って、安くて美味しくて、それになにより人情あふれる街なんですね。浅草なんて問題じゃないですよ。」

「○○と比べて」とか「△△よりも○○が良い」というような「相対評価」を、ふだん私はあまりしません。
あくまでも「○○は良い」という「絶対評価」を信条にしています。
金子みすゞじゃないですが「みんな違ってみんな良い」。
けれど相手が、日本が世界に誇る観光地「浅草」ともなれば、この「相対評価」は素直にうれしかったですね。

「また中野に来ます! こんどは1軒目にここに来ます!」
「ぜひまた。中央線は中野だけじゃなく、高円寺・阿佐ヶ谷・荻窪、みんな雰囲気の違う、それぞれ楽しい街ばかりです。いろいろ回ってみてください。」
「ええ、きっと。」

満足そうにお帰りになる二人を見送り、今宵も「中央線コンシェルジュ」(笑)としての仕事に実りを感じました。
中野の昭和レトロっぽい雰囲気を、若いカップルに十分に伝えることが出来たのでしょうか……。

たまたま同席(立ち飲みだけど)の秋田美人「静ちゃん(仮名)」によれば、
「レトロっぽくするには、『カップル』じゃなくて『アベック』と言わなきゃ」
との鋭い指摘。
なるほど納得。私も修行が足りませんね〜。





 実は門前町
     <2009/7/24(金)>

 昨日も中野駅北口で飲んでしまいました。二軒ハシゴ。
今日も行くことになるのかなぁ……。

中野駅の北口には12もの商店会があり、一説では900軒の飲食店を数えるそうです。和洋中の飲食店から居酒屋、焼鳥屋、BAR、スナック、キャバクラ、ともかくゴチャゴチャ。その密度たるや、なんと新宿・歌舞伎町を上回ると言うんですから大したもの。一生かかっても回り切れません。だって回っていく最中に代替わりして新しいお店になったりしますから。
この新陳代謝も中野の魅力のひとつだと思います。いつ来ても飽きない街。それが中野です。
あ、商店会は現在12ですが、以前は「45番街商店街」という、もっともディープでマニアックな一角がありました。残念ながら再開発のために全店立ち退き(まだ1店頑張ってたかな?)消えてしまいました。

こうして繁栄している中野北口ですが、明治22年に中野駅が出来た当時、なんと北口はなかったのです。

そもそも中野で栄えていたのは青梅街道沿い(いま東京メトロ丸ノ内線が走っているところ)であり、そちらは江戸時代を通じて300年間賑わっていました。
中央線は何もない原野や雑木林、田圃や畑の真ん中に敷かれた線路ですから、まわりには人家もまばらでした。
中野駅そものもの、今の場所から100メートルほど西、中野区役所の前あたりにありました。中野通りはまだなく、桃園通りを五差路のほうに下っていくのが駅前通りだったそうです。栄えている青梅街道方面に向けて南口だけ作った、というのは無理もないでしょう。駅の北側は広大な空き地でした。そう、元禄時代、徳川綱吉の「生類哀れみの令」で収容した犬たちの「お囲い場」の跡地です。

さてこの中野駅。開業したものの、あまりにも乗降客が少ないので、なんとか観光客需要を喚起しようと、ポスターが作られました。
いわく
「日蓮宗の古刹、堀の内妙法寺、新井薬師梅照院に、東京中央居住の人にて参詣するものは、当駅にて下らばもっとも便なるべし」
そうです。
中野駅は、こうした寺院への門前町としても発展していったのです。

駅開業8年後の明治30年に、駅の北側、囲い場跡地に陸軍鉄道大隊が開営。やがて電信隊、気球隊がやってきます。人が来ればさまざまな需要が増え、次第に南口駅前に商店街が形成されてくることになりました。ただ北口には薪炭商など1〜2軒の商店しかなかったそうです。
やがて震災後の人口流入で乗降客が次第に増え、駅が手狭になり、駅は中野通りをはさんだ東側に拡大移設されることになりました。昭和4年のこと。同時に中野通りは拡幅されて線路を南北に貫通し早稲田通りまで到達させることに。鉄道との交差は踏切では不便なので道を掘り下げて線路の下をくぐらせることになりました。

このときに北口が出来たのですが、当時、駅前の南北の土地は線路と同じ高さにありました。そうすると駅前商店街は中野通りより高い位置になり、商売上、得策ではありません。そこでなんと、広大な駅前の土地も中野通りと同じように4メートルも掘り下げたのです。
いま中野駅は「高架駅」のように階段を上ってホームに到りますが、実は中野駅は高架なのではなく、駅前のほうが掘り下がったという、珍しい駅なのです。だから構内通路の天井がちょいと低め。

こうして様々な商店街が生まれました。昭和6年、桃園通りには、後にマルイに発展する「丸二商会中野支店」も出来ました。このあと戦後の巨大な闇市マーケットから発展したという側面もあります。そのお話しはまた項を改めるとして、ここでは私が夜毎に徘徊している飲屋街「ふれあいロード」について。
ここは中野北口のメインストリート「サンモール」(吉祥寺のアーケード商店街は「サンロード」。よく混同されるんですよね〜)の東に位置し、南北に通って早稲田通りに到る、路地のように細い道です。その充実っぷりは行かれないことにはご理解いただけないと思いますが、非常に栄えています。安くて美味しくて人情味豊かなお店が多く、しかも安全なんですから、飲み助には堪えられない聖地。オヤジ天国。

この「ふれあいロード」は、以前「仲見世通り」と呼ばれていました。
はい、浅草浅草寺の門前商店街にあやかった名前です。
それはこの道が、江戸時代から眼病平癒の祈願寺として有名な、新井薬師(梅照院)に通じる参道という位置づけがあったからです。開業当時の中野駅のポスターの文句にあった通りですね。
いまではそういうイメージはありません。早稲田通りにある大妻中野中・高の生徒たちの通学路になっています。夕方から焼き鳥をほおばり、コップ酒を片手にした赤い顔の親父たちの横を通り過ぎるセーラー服の一団。なんとも中央線らしいシュールな光景ではありませんか。

「ふれあいロード」は早稲田通りにぶつかったところでお仕舞い。
道を渡ると「薬師アイロード」(旧称:薬師銀座)になります。ここには戦前からの老舗から、スペインはバルセロナから来たキャンディーショップまで、実にさまざまなお店が並んでいます。いまは飲食街という風情はあまりありませんが、かつては芸者置屋もあり、戦前の最盛期には、なんと500人もの「薬師芸者」がいたそうです。かなりの花街であったとのこと。いまも呉服店や草履屋さんなどが多いのは、その名残とか。
なにしろですね。
ここは、そうした意味での一大事件があった所でもあるんです。

薬師銀座の一角に、鰻割烹「吉田屋」がありました。
そこの主人と仲居さんが不倫の挙げ句に出奔。結局、荒川区尾久の待合(ラブホテル)で仲居さんが主人を殺害する、という事件が起きました。昭和11年のことです。
犯人である仲居さんの名前は「阿部定」さん。
そう、愛欲の果ての猟奇事件として一世を風靡した、あの阿部定事件です。
いまの平和でのどかな薬師アイロードからは想像もできない世界ですね。

ちなみに阿部定さんは、1974年に行方不明となり、いまだに生死不明だそうです。
生きていたら104歳。
この界隈で、ものすごく高齢のおばあさんを見かけたら・・・・・もしかして?!





 中野と言えば・・・
     <2009/8/3(月) >

 中野の街と言えば・・・まず何を思い浮かべますか?

いまの若い方なら・・・
「中野ブロードウエイ」でしょう。
正式には「coopブロードウエイセンター」。
住宅商業複合施設の草分け的存在で、地下1階から4階までがショッピングゾーンになっています。いわゆる「オタク」と呼ばれる漫画やアニメの分野から、ヴィンテージ時計のショップまで、実に雑多の趣味の世界が混在するカオス的存在として、「中野=サブカルチャーの聖地」を象徴するランドマークと位置づけられています。詳細はまた日を改めまして。

少し前の若い方なら・・・
「サンプラザ中野」でしょう。
これは人物名です。よく建物名として「サンプラザ中野」と書かれることもあるのですが、中野が後ろに付くのは人名です。現在では「サンプラザ中野くん」と、「くん」込みで芸名になっています。
スキンヘッドとサングラスがトレードマーク。山梨県甲府市のご出身ですが、本名が中野裕貴さん。早稲田大学在学中の1980年、アマチュアバンド「スーパースランプ」を結成。アマチュアバンドのコンテストに出場して高い評価を得ました。その会場が「中野サンプラザ」であったことから、本名と引っかけて芸名を選んだそうです。1982年に「爆風スランプ」としてメジャーデビュー。「走る〜走る〜オレ達♪」の「Runner」、武道館の金色の宝珠を歌う「大きな玉ねぎの下で」などで一世を風靡しました。

もっと前の若い方なら・・・
「中野サンプラザ」でしょう。
こっちは建物の名前。上記の芸名の由来となったものです。
まさに芸能コンサートの殿堂のように言われ、いまも健在。「氷川きよしショー」が開催される日などは、中野の街が「妙齢のご婦人」方に占領されたような状態になります。
三角形がユニークなこの建物、もともとは雇用保険法に基づく勤労者福祉施設「全国勤労青少年会館」として1973(昭和48)年に建設されました。
コンサート会場・宿泊施設・結婚式場をはじめ、音楽・ボウリング・テニスの施設が充実。働く若い人たちの社交場?として大いに利用された施設でした。若年者の職業相談所「サンプラザ相談センター」もありましたが、時代の流れと共に名称に見合った活動が低調となり、ついに2004年に民間に譲渡され「株式会社中野サンプラザ」が経営するところとなりました。
中野のランドマークとして今も燦然と輝いています。

さて。
ずっとずっと前の若い方なら・・・
「陸軍中野学校」でしょうか。今日のテーマはこれ。中野学校です。
8月は戦争と平和について考えることの多い月ですから、ちょっと取り上げてみたいと思いました。

明治22年に中野駅が開業したときには周囲にはほとんど何もなく、主に南口が栄えていたこと。
その後に空き地であった駅の北側に陸軍の施設が出来てから、北側も徐々に発展したことなどは既にお話ししたとおりです。
中野学校もそのような施設の一つでしたが、戦後になるまで、中野の近隣住民はおろか、同じ敷地に中で働いていた陸軍の軍人さんたちでさえ、その存在を全く知らなかったと言われています。
逆に中野学校が有名になった後は、あの広大な敷地すべてが中野学校の校地であったと誤解されている方もおいでですが、中野学校は敷地全体のごくわずかを、ひっそりと利用していただけなのです。

正式名称は「陸軍中野学校」です。
陸軍の学校は「戦車学校」とか「工兵学校」など、教育内容がわかる名称がつけられていたのが普通ですが、中野学校は「中野」という地名だけです。ほかに「陸軍習志野学校」が千葉県にありましたが、こちらでは毒ガスなど化学兵器の教育が行われていました。地名だけの学校は、教育内容が秘匿されていたわけですね。中野学校はまさに秘密を扱う情報戦士、スパイなどの諜報謀略要員を養成していた学校なのです。

日本は日露戦争の時代、かなり優秀な諜報謀略作戦を展開していました。世界各国に諜報要員網を張り巡らせ、世界の世論を調査しながら日本に有利な講和のタイミングを探っていたのです。また敵国ロシア帝国内には明石元二郎大佐を送り込みました。彼は参謀本部から得た莫大な資金を元に、レーニンなどの国内革命派やフィンランド独立運動を援助。ロシアを国内から揺さぶりました。これはかなり大きな成果を上げたようで、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、「明石元二郎一人で、20万の兵に相当する戦果を上げた」と称えたと言われています。
これほど日本が謀略に長けていたのは、謀略に富んだ明治維新をなしとげた山県有朋が陸軍のトップにいたことと、その他の指導者層も日本の国力を正当に認識していたことによるのでしょう。大国のはざまの小国ほど諜報謀略が得意であるというのは、古今東西に例が多いところ。
日露戦争に辛うじて勝ったお陰で、指導者層は国力に似合わぬ大国意識を持ち始め、その結果、あれほど有能であった諜報謀略は軽視というか、無視されるようになってしまいます。

しかし世界では、その後も着々と諜報謀略の技術が磨かれ、その影響力は増大していきました。
それに危機感を感じた陸軍省兵務局の岩畔豪雄中佐は、参謀本部に「諜報謀略の科学化」という意見書を提出、謀略活動の活発化と要員育成の必要性を説きました。これが1937(昭和12)年のことです。
これを受けて同年末、陸軍省は諜報謀略要員を養成する「後方勤務要員養成所」を創設し、翌年開校。これが中野学校の前身です。初代所長は、設立準備委員の主唱者であった秋草俊中佐。のちに市川雷蔵主演の映画「陸軍中野学校シリーズ」で加東大介が演じた「草薙中佐」は秋草中佐がモデルで、風貌や雰囲気がよく似ていたそうです。
ちなみに、最近のアメリカ映画「硫黄島からの手紙」で、憲兵から転身した兵隊が登場し、出身を「後方勤務要員養成所」と名乗り、他の兵隊が「なんだ憲兵崩れか」と苦い顔をするシーンがありましたが、これは明らかに誤りです。「後方勤務要員養成所」は憲兵養成の学校ではありませんし、一般の兵隊がその名称を知っていることはあり得ませんでしたから。

「後方勤務要員養成所」は当初、九段の軍人会館(現在の九段会館)に隣接した「愛国婦人会本部」(現在の千代田区役所あたり)別棟で開設されました。その後1939(昭和14)年4月に中野区囲町の軍用地内に移転し、翌年正式に「陸軍中野学校」と名称が変更されたのです。
中野に移転したのは、教育内容が充実していくにつれて、愛国婦人会本部の別棟では手狭になってきたことと、ここは東京市内の真ん中で人目が多く、秘密が保てない恐れがあったことが原因と考えられています。移転先となった中野の軍用地は、その前に移転した通信学校の空き校舎でした。

中野の軍用地は明治時代の鉄道隊にはじまり、やがて鉄道隊が千葉に移転すると通信隊・気球隊が入りましたが、1939(昭和14)年には両者も転出していて、広大な敷地には憲兵学校だけが残っていました。通信学校は空き校舎になっており、ここに「後方勤務要員養成所」が移転したわけです。
もとが通信学校であったため、入口には「陸軍通信研究所」という看板を掛け、諜報謀略の学校であることは秘密にされていました。また中野学校の教職員や学生は軍服を着用しないことになっており、頭も陸軍軍人のように丸刈りにせず長髪、そして偽名(防諜名)を名乗っていました。「戸籍も消していた」などというのは、さすがに作り話のようです。

こうして機密の維持に留意した結果、隣接する憲兵学校の教職員・学生も「通信研究所」の実態を知らず、軍人ではない電気通信の研究者が出入りしていると思っていたそうです。
そのため、戦後に「中野学校」が知られるようになると、憲兵学校出身者は自分たちのことかと誤解し、さまざまなところで「オレは中野学校出身」と(悪意なく)吹聴したため、中野学校=憲兵学校と誤解する人も生まれたようです。上記「硫黄島からの手紙」での誤りがそのためかは不明ですが……。
身内であり、しかも諜報組織である憲兵をもだまし続けた中野学校は、相当な実力者と言わざるを得ませんね。

中野学校の学生の多くは、職業軍人を養成する陸軍士官学校出身者ではなく、一般の学校を卒業した予備士官が中心でした。これは外見の民間人らしさはもとより、頭の柔軟さ、思想的な自由さが要求される諜報謀略要員ならではの配慮で、学校名の気風は自由闊達、天皇制の是非についてまで自由に語られていたとされます。
その一方、厳選された志操堅固なメンバーばかりで、名利を求めず国の捨て石になる覚悟を固めた精鋭揃いだったようです。

余談:
私の父は陸軍将校(予備士官)でしたが、戦後にGHQの通訳となりました。
そこでGHQの高官から、戦前、米英が日本国内に張り巡らせていた諜報組織について少し聞いたそうです。戦争の「せ」の字もなかった時代から日本に派遣されていたスパイ将校たちは、宣教師や商社マンなどに化け、日本国内で人脈をひろげることに専念。特に大きな功績を挙げなくとも、日本に定着していることだけで年々昇進していったそうです。やがて戦争が近くなると、その組織は大きな力を発揮しました。
「そういう考えは日本軍にはなかった。功績無しに昇進させれば、必ず足の引っ張り合いをしたはずだ。100年先を見据えた、スケールの大きい発想をする国と戦争して勝てるわけがない」
と悟ったそうです。

中野学校の卒業者は大いに活躍しました。
内容が内容ですので、正式な記録に残る戦果は少ないものの、中国や東南アジア各地でかなり活躍したようです。有名なのはマレー作戦において、中野学校出身者らで構成された「藤原機関」が、敵のインド人兵士に対して投降作戦を展開し、投降したインド人に反英独立の「インド国民軍」を創設させたこと。また、ビルマ戦線では、同じく中野学校出身者らで構成された「南機関」が、「ビルマ独立義勇軍」と日本軍との共同作戦を成功させたりしています。ちなみに、後者の活躍をもとに脚色創作された物語が、子供向けテレビ番組にもなった「怪傑ハリマオ」です。私も見ていました。

「後方勤務要員養成所」からスタートした中野学校は、純粋な諜報謀略要員、つまりスパイ養成を目指したものでしたが、太平洋戦争が泥沼化していくに従って、ゲリラ戦術の教育が強化されていきます。のんびりと諜報活動をしている余裕が無くなってしまったと言えるのかも知れません。
太平洋の熱帯ジャングル地域での戦闘が激化する中でゲリラ戦術の重要性はさらに増大し、1944(昭和19)年8月、静岡県二俣町にゲリラ戦要員の養成だけを目的とした、陸軍中野学校二俣分校が設立されています。フィリピン・ルバング島で「残地諜者」として戦い、1974年に帰国した小野田寛郎元少尉は、この二俣分校の卒業生です。

東京が大規模な空襲にさらされるようになり、終戦も近い1945(昭和20)3月、陸軍中野学校は名称はそのままに、群馬県富岡町に移転しました。そして敗戦とともに中野学校は廃止され、多くの学校資料は焼却処分されました。そのため、中野学校の詳細については、永遠に不明となってしまっています。

私が初めて中野を知ったのは、上記の映画、市川雷蔵主演の「陸軍中野学校シリーズ」でした。
その映画は、同じスパイを扱った007などとはまったく異なり、陰湿で暗いイメージの内容。わざと白黒フィルムを用いて戦前風に見せる演出のため、こども心には強い印象が残りました。「中野」というと中野学校がイメージされたのはその強いインパクトのせいかもしれませんね。

中野学校と憲兵学校の跡地は、戦後GHQの憲兵司令部を経て警察学校・警察大学校となり、警察学校の府中移転(2001年)のあとは14万ヘクタールもの広大な空き地になっています。
ここは中野区主導で再開発の計画があり、オフィス、住宅、商業からなる大規模施設の建設が今後予定されているとか。
もともとは徳川綱吉の巨大な犬小屋であった中野区囲町。その後、軍施設や警察施設となった歴史。
そして21世紀。、この地が、平和で楽しいエリアになってくれることを心より願わずにはいられません。





 逸品
     <2009/8/4(火)>

 中野区では、2008年から「中野の逸品グランプリ」というのをやっています。
http://www.nakano-no-ippin.com/

最近、町おこしや地域産業活性化、地産地消というような観点からか、こうした取り組みが全国各地で行われているようです。しかもネット時代ですので、情報発信も参加もフィードバックも、すべてオンラインで世界相手に行えるのですから、いやもう、すごい時代になったものです。こういうのに駅近のメリットというようなのは関係ないんですよね。

さて、2009年も3月に結果が発表されていたわけです。古い話で恐縮ですが。
それによると・・・。
最優秀逸品賞に選ばれた5品は
 ・スリランカ・ポーク・カレー(スリランカ・カレー&バー スジャータ)沼袋4丁目
 ・特選 神宮豆腐(神宮豆腐総本店)中央4丁目
 ・沼チョコ(手作り菓子 アビニヨン)沼袋1丁目
 ・味噌せんべい(高一屋商店)江古田2丁目
 ・黄玉満(こうぎょくまん)(虎月堂)中央5丁目
という結果。
う〜ん、中央線沿線のお店がない。「中央」はメトロ丸ノ内線の「新中野」が最寄り駅。
「沼袋」「江古田」といえば、西武線です。

最優秀逸品には選ばれなかったものを含め、1次審査を通過した17品のお店の所在地は・・・
 ・沼袋6店
 ・野方3店
 ・新井2店
 ・上高田1店(新井薬師駅前)
 ・江古田1店
合計11店(65%)と西武線、圧勝ですね。
メトロ沿いは
 ・中央3店
にとどまっています。
そして残りが
 ・中野1店
という結果に。新井の2店は中央線と西武新宿線の中間、できれば中央線の範疇に入れたいお店ではあります。それにしても中央線沿線(中野区内では、中野と東中野)近くのお店が少ないのは否めません。

唯一の中野アドレスは、中野5丁目、美登里うなぎ店の「うなぎののり巻き」でした。
簡単に言うと、うな丼を巻きずしにしたという感じですが、実用新案の登録もしている、まさに逸品。
しかもウナギ消費シーズンとも言える夏場は販売していないという「幻の逸品」。気になるお品です。
「美登里」は中野駅北口から1分ちょっとと近く、スーパーマーケット「ライフ」の斜め前。リーズナブルなお値段で確かな品を出してくれる老舗として、地元では有名です。
(それにしても中野のこの界隈には、ウナギの老舗が多いですね。新井薬師花街の仲見世だったことも影響しているのかな?)

こういうランキングものは、特にネット投票がからむと、組織票が入ったり、必ずしも100%妥当とは言えない結果を招くこともありますが、もちろん審査員による厳正な審査もありますから、ある程度は信頼できる結果なのではないかと思います。
2008年度には、1次審査通過20店のなかで、中野5店、東中野3店が選ばれていたことを思えば、今年度は退潮という感も禁じないのが正直なところです。お店の数でいえば中央線沿線のほうが、ずっと多いはずなんですからね。

これはなぜなのか。
やはり中野駅周辺は、あまりにも地価が高くなって、小さな商店がやっていけない環境になりつつある、ということなのでしょうか。そういえば北口商店街「サンモール」も、チェーン店化が急速に進んでいるように思います。昔からのお店が閉店してテナント貸しに変わっているのでしょう。
確かに平日の日中でも、サンモールは「人混み」と言えるほど多くの人が通行しています。けれども商店街を素通りされて、中野ブロードウエイに直行する人も多い。昼食時にはラーメン店や回転寿司チェーンは混んでいますが……。う〜ん、まぁこれはこれで良いのかなぁ。新陳代謝の良さが中野の魅力でもありますからね。シャッター通りが当たり前の今の時代、日中の人通りが多いということだけでも、現状は正解とも言えるのかもしれません。商売は結果が全てという側面はありますからね。
……でも、どこへ行っても同じようなチェーン店は、個性重視の中央線沿線ではちょっと寂しさを感じてしまうのです。いや、部外者が勝手な思いを述べているだけです。

さて。
ランキングとかは関係なく、いま中野駅界隈で「お土産」に出来る品というと何でしょう。その場で食べる料理は別にして。

多くの方が「papabubble(パパブブレ)」のキャンディーを挙げるかもしれません。
2008年度のグランプリでは一次通過をしていました。
スペイン・バルセロナがもともとのお店で、なんでこんなお洒落なお店が「薬師銀座(あいロード)」に?!と思うようなたたずまい。帝釈天の飴のように製造工程をその場で見せてくれるのが楽しいです。カラフルで香り高く、しかも需要によりオーダーメイドも可能。結婚式の時に新郎新婦の名前を入れたキャンディーなど好評のようですよ。
温めた板の上で、さまざまな色と香りの飴を引き延ばし引き延ばし細くし、重ねます。金太郎飴をより繊細にした感じですね。こうした「引き飴」は、「流し込み飴」と比べて口溶けが良く、後味が良いのが特徴。

……でもまぁ、酒の肴には成りません(苦笑)。

私が「中野みやげ」として人に差し上げるとき愛用しているのが、「但馬屋の豆菓子」です。
この但馬屋、実は2軒あります。
薬師あいロード、パパブブレの斜め前あたりにある、引き戸もレトロな但馬屋と、より中野駅に近い、サンプラザの北、中野通りに面した近代的ビルの1階にある但馬屋の2軒。
販売しているお品も似通っているため、のれん分けとか支店とかなのかな?と思ってお店の方に聞いてみたのですが、どうやら無関係とのこと。「但馬屋」なんて屋号、時代劇ならいざ知らず、現代では少数派だと思いますし、同じ中野の同じ豆菓子屋さんということで、何かつながりがあるのではないかと今も思っているのですが、お店の方が(なぜか)決然と「違う店です」とおっしゃいましたので、そうなのか、と考えるようにいたしておりますです、はい。
(三軒茶屋にも但馬屋という豆菓子店があって同じような感じですが、これ如何に?)

私は地の利から、中野駅に近い方のお店を愛用していますが、どちらも美味しいです。
豆菓子って便利なんですよ。あまり好き嫌いのないものですよね、豆菓子って。
子どものオヤツにもなりますし、お年寄りがノンビリ食べるお茶請けにもなります。
おじさんがビールをのんだりするときにも最適。用途の幅が広いんですね。ひとつひとつが小さいので、皿に盛って大勢で食べたり、適量だけ食べることが出来るのも便利です(でも、たいがい「やめられない・とまらない」になるものですが・笑)。
それに品数豊富で、甘いの辛いの選ぶ楽しみもあります。で、何よりも価格がお安い。1袋300〜400円ですからね。それを4袋詰め合わせにでもしたら、かなり豪華ですし、もらった方が「わあ!」と喜ぶのが目に見えるようです。少なくとも私は喜びます(笑)。
私が好きなのがビールに良く合う「三色ビーンズ」と「激辛豆?」です。
三色ビーンズって、揚げた空豆にカレーの黄色とウニの赤と海苔の緑を掛けたものなんですが、安いところで買いますと味もおざなり、色はいかにも合成着色料べったりという感じで、あまり気が進みません。けれども但馬屋のは味も確かで色も上品な自然色。お値段も300円だか450円だかで、実にお手頃です。お勧めしたい私の逸品。

2008年度のグランプリで最優秀逸品賞のひとつに選ばれたのが
東中野の かきもち処 はやしや「柿の種」。
http://hayashiya.iinaa.net/
いかにも美味しそうじゃありませんか。創業70年の老舗だそうです。
私は関西人であるせいか「かきもち」っていうのが好きでして。東中野の駅前のようですから、今度行って買ってみようかと思います。

今回は話しがちょっとばらけた感じですが、何を申し上げたかったかと言えば、中央線沿線のお店も、より個性を持った形で永続して欲しい、ということです。
なにも老舗ばかりではありません。新規開店のお店も、しっかりとしたコンセプトのもと、ぶれることなく(しかも顧客のニーズに敏感となりつつ)大切と思う品を創り販売して欲しいと思います。そうすれば「逸品」にランクインすることも十分有りうると思います(グランプリを見るとかなりの比率で新しいお店が選ばれています)。
そういう意味では、私はブロードウエイ地下の、手作り点心「また明日。」のシュウマイや肉まんもお勧めしたいですね。あ、同じ点心なら、線路沿いのちょっと判りにくいところにある、知る人ぞ知る店「まんまるまんとう」も好きですが……あれは高円寺かな(残念ながら閉店!)。

より個性的で中身のあるお店が増え、永続して欲しい。それには、私たち消費者が本物の価値を知って、そういったお店をこまめに愛用することが大切です。お店は顧客が育てるものでもあります。やっぱり「同情するなら金をくれ」(激古)ですよ〜(笑)。





 え〜っと何番線?!
     <2009/8/11(火)>

 「なんばんせん(何番線)」と入力したら「南蛮船」と変換されてしまいました。
呂宋助左衛門かって(笑)。

お蕎麦の「鴨南蛮」とか「カレー南蛮」の「南蛮」を、焙り焼きとかそういう「南蛮料理」と結びつけて解釈する向きも多いですが、これは「葱の入っているメニュー」を指すのです。
 江戸時代、大阪の「難波(なんば)」が葱の名産地であり、葱のことを通称「なんば」と読んでいたことによります。魚の唐揚げを、葱と唐辛子(南蛮)を混ぜた甘酢に漬けた「南蛮漬け」は、ポルトガル料理の「エスカベッシュ」由来ですからまさに「南蛮」ですが、鴨ナンバンのナンバンとは別ものです。

中野駅の乗り換えの話しをするつもりが、ノッケから脱線。
あ、電車の話しで「脱線」は縁起が悪かったですかね(苦笑)。

中野駅は大きな駅で、ホームが4本あり、合計8つの乗り場があります。
 1番線…中央・総武線各駅停車下り(三鷹方面)
 2番線…中央・総武線各駅停車上り(新宿・千葉方面)
 3番線…東京メトロ東西線下り(西船橋方面) 総武線乗り入れ(三鷹方面)
 4番線…東京メトロ東西線下り(西船橋方面)
 5番線…中央・総武線各駅停車上り(新宿・千葉方面) 東京メトロ東西線下り(西船橋方面)
 6番線…中央線快速下り(立川方面)
 7番線…中央線快速(待避線・ラッシュ時は一部の快速上り)
 8番線…中央線快速上り(新宿方面)
どうです。
複雑でしょう?ぱっと見て、何が何やら判らない状態だと思います。私自身、改めて頭がこんがらがって来ました。

はじめから「快速・特快(特別快速)に乗る」と決めておけば、そう難しくはありません。
上りなら8番線、下りなら6番線に決まっています。ただ、朝のラッシュ時に7番線に到着する上り快速もあります。これは混雑緩和のための措置で、7番線に来た電車は、新宿駅でも7番線に到着します。これは車内混雑の平均化を図るため、中野で進行方向左側の扉を開けたら、新宿では反対の右側を開けるように、運行上の工夫がされているためとか。よく考えられていますね。

問題なのは、中央・総武線各駅停車に乗る場合と、どこからか快速に乗ってきて中野で各駅停車に乗り換えるときです。
さぁ困った。何番線に行けばいいのか非常にオタオタ、右往左往してしまうのです。
「次の各駅停車の下りは3番線か」
「おっと、先に1番線が来る!ダッシュ!!」
「ま、間に合わないっ!3番線に戻るぞ!それっ!」

ホーム4本のうち、北側の1本は中央快速、南側の1本は中央総武各駅停車が専用していると言っても過言ではないのですが、問題は中の2本。これを中央快速・中央総武各駅停車・メトロ東西線が共有しているような形になっているため、非常に複雑になっています。しかも東西線の一部は三鷹まで乗り入れていますし、各駅停車も中野始発があったり。
(あ〜、これは図で説明しないとご理解いただけないでしょうね、きっと)

問題の根源は、中野駅(というより本ブログで扱う中央線の駅すべて)が「路線別複々線」であり、「方向別複々線」になっていないことによります。
 考えてください。
お茶の水駅のように、同じホームの反対側で、同じ方向に進む快速と各駅停車が乗り換えできれば、これは便利ですね。山手・京浜東北線なども方向別複々線ですから、ひとつのホームに行けば、山手線か京浜東北線、いずれか先に来た電車に乗れば良いわけです(快速とかもありますが)。関西では方向別複々線が多く、急行待ち合わせ乗り換えなどが非常に便利です。

中央線が不便が解消しないのは、高架化したときの様々な経緯にもよるようです。
いわゆる「杉並3駅(高円寺・阿佐ヶ谷・西荻窪)快速停車問題」がからみます。
この「杉並3駅問題」は、たっぷり一項目語れる内容なので、もったいないから日を改めましょう。

この問題を簡単に言うと、
 ・高架化(1966年に中野〜荻窪・1969年に荻窪〜三鷹)に際しての用地買収交渉については、東京オリンピックまでに複々線化を完成させようとしていた国鉄が、かなり焦っていたらしい。
 ・焦った国鉄は交渉の中で、当初快速が停車しない予定であった杉並3駅周辺の住民に対して「日曜祝日以外は快速を停車させる」という破格の条件を確約し、高架化は実現した。
 ・それを三鷹以西の住民たちが「こんな事実上の各駅停車は『快速』じゃない」と問題視し、「杉並3駅快速通過」論を展開している。
 ということです。(こんな要約で良いのかな?)

この問題は国鉄でも長年懸案となっていたようです。
しかし杉並3駅の利用者は非常に多いことから、そう簡単に快速通過に変更することは現実的にも不可能。完全に快速通過となれば、通勤ラッシュ時に3駅はパンクしてしまいます。
 そこで(民営化を控えていた)国鉄では、快速の一部だけを通過させることを前提にして杉並側と交渉。快速の一部を土日にも停車させるという「おまけ」もあったため、杉並側もおおむね同意の方向で話が進んだそうです。
 そのときの杉並側の条件が「方向別複々線化」です。中野や荻窪で快速から各駅停車にスムーズに乗り換えられれば、まぁ便利ですからね。それが条件でした。これを受けてJRは1988(昭和63)年、中野〜三鷹間の方向別への変更を発表しました。

これで話しは進むと思われました。1990年には工事調査費の予算計上までされていましたが、ここで思わぬ伏兵、中野&東中野の反撃が出現しました。

方向別複々線にするためには、快速線上下線の間に、各駅停車線1本が割り込まなければなりません。
大久保・東中野あたりは各駅停車線にのみ「島形ホーム」(1つのホームの両側に上下線の乗り場がある形式)がある駅で、割り込み立体交差をするには東中野〜中野間で工事をしなければならないのです。

反対運動の主眼は「東中野の桜を守れ」でした。

東中野駅の西、明治大学付属中野高校前の「桜山通り」は、それは見事な桜並木です。また同じ時期に桜山通りの線路寄りの土手には菜の花も咲き誇り、まさに一幅の絵画を見るような美しい姿を現します。この景観は、地元の人たちが長い歳月を掛けて作り上げた美の結晶とも言えるもの。
けれども、立体交差工事をするには、どうしてもこの土手を崩さないと不可能なのです。
東中野の住民は当然のように反対運動を展開。また、お隣中野駅周辺の住民も(多少は「方向別化により、各駅停車の中野始発が減る」ことへの危機感もあったでしょう)、同調して反対運動を行いました。

結果として、立体交差案は白紙撤回されました。
……ということで、中野を始め、中野以西の中央線各駅は乗り換え不便なままの状態にあります。

難しい問題です。
利便性だけを考えれば、桜を伐採しても立体交差をさせて「方向別複々線」を実現するのが良い。
環境・美観を大切に考えれば、多少の不便を我慢しても桜並木を保全すべき。
簡単には結論の出ない話だと思いますねぇ。

ただ、別の問題が生じているそうです。
桜山通りのソメイヨシノは樹齢45年を超えるそうで、万が一、枯れて線路側に倒れでもしたら大事故につながりかねません。保護とともに、そのあたりも考えなければならないようです。





 むしむし
     <2009/8/25(火)>

 8月末のここに来て、晴れの暑い日が続いていますが、朝夕は秋風がそよぎ始めました。そろそろ夏休みも終わりですね。高校野球が終わると、「あ〜夏休み、終わっちゃうよ」と、子どもたちが焦ってくる頃なのでは?宿題は終わったかな?
 私たちの頃の、小学校の夏休みの宿題と言えば、「夏休み宿題帳」みたいな問題集と絵日記、そして「自由研究」でした。今もそうなのでしょうか。テレビの「サザエさん」では、カツオが最終日まで宿題をやらずにいて、8月31日に波平さんやマスオさんが手伝わされる、なんていう光景を毎年見ます。私はといえば、宿題帳は7月に終えてしまって、8月は優雅にバカンスを楽しむイヤな小学生でした。何か気がかりがあると、心ゆくまで楽しめないじゃないですか。先憂後楽ですわい。

「自由研究」は好きでした。工作モノが得意で、いろいろと工夫して作りましたし、一度だけですが「市長賞」をもらったことがあります。けれどもクラスの他の子どもたちの提出物は「昆虫採集」がメジャーでしたね。新学期にはたくさんの標本が教室に並び、一種独特の薬品臭?が漂ったものです。
 文房具屋さんには「昆虫採集セット」(実際は標本制作セット)が売られていました。ピンセットやメス、虫ピン、殺虫瓶。赤い殺虫薬?と緑の防腐薬の瓶が禍々しい。そして子どもたちにはあこがれのアイテム、本物っぽい注射器がセットになっていました。こういうセットは今も販売されているらしいですが、注射器は入っていないとか。針が物理的に危ないこともさることながら、アブナイ大人がアブナイ薬の濫用に使う可能性があるからとか。別な意味で物騒な世の中になったものです。

私が大学生になった昭和50年代頃から、こうした「昆虫採集」は、学校により規制するようになったようです。自由研究も「標本はダメ」という指導もあったとか。その理由は「虫を殺すのは残酷」というものや、「観察で十分」というもの、また「自然環境保護の精神に反する」「虫が絶滅する」といったものなど様々。それに都市化が進んで、町中では、標本向けの派手な昆虫(カブトムシやクワガタ、オニヤンマやギンヤンマなど)を見かけなくなってしまった、という現実的な側面もあったでしょう。そういえば最近は、捕虫網を持った子を見かけなくなりましたね。

ちなみに。捕虫網(白くて繊細な網)は、あくまでも捕虫目的で使うべきで、私は魚獲りに使用し、一瞬にして崩壊させた経験があります。捕虫網は水に漬けるとアウトです。
 あ、それから。むかしの「昆虫採集セット」に入っていた各種の「薬」は、ほとんどが「ただの色水」だったようで、注射しても虫は死なずに暴れたり、腐ったりしたそうです。考えてみれば、強い薬を、文房具屋さんや駄菓子屋さんで売れるはずないですものね。

でも、どうなんでしょう。たかが子どもの昆虫採集で、絶滅するほど昆虫の世界はヤワじゃないと思うのですが…。「ゴキブリほいほい」をいくら設置しても、ゴキブリは絶滅しません(たとえが不適切かな?)。よほど特殊な方法を用いるとかしない限り、昆虫採集と虫の絶滅は無関係のように考えます。むしろ、昆虫採集を規制することが、日本の子どもの「理科ばなれ」を促進しているように思えて仕方がありません。昆虫採集をしたくない子に強制することはいけませんが、したい子まで規制するのは、いささかおかしいと思いますね、私は。

子どもの多くは虫が好きです。そして子どもの頃の興味を大人の趣味として継続している人もたくさんいます(私はそういう人が大好き!)。
 そうした方々にとって、あこがれの場所が中野にあります。南口から徒歩1分。線路沿いドトールコーヒーの上にある、その名も「むし社」。いやぁ、判りやすいネーミングですね。
http://homepage2.nifty.com/mushi-sha/
「むし社」では、生体のほか、飼育用品、捕虫器具や標本用品などを山のように在庫して、店頭販売しています。まさに子どもの夢「昆虫採集セット」の巨大版。お好きな方にとっては、一日中楽しめる場所であること、請け合いです。通販もあります。
 また、「むし社」では、昆虫趣味総合誌「月間むし」や、内容を甲虫に絞った「季刊BE-KUWA」なども刊行。この趣味を持つ方々を強力にサポートしています。この趣味を持つ人々を仲間内では「むし屋」と呼ぶそうですが、「むし社」は、まさに「むし屋のためのむし屋」ですね。

こうした、コアでディープな「趣味人」たちの、熱い需要に応えてくれるスポットがあるのが、いかにも中野らしいと思います。本当に中野は様々な趣味ワールドのルツボ。「むし社」がどうして中野に店を構えたのかは存じませんが、結果として非常によい立地を選ばれたと思います。
 これからも、もっと様々な趣味のお店が、中野に出来ればいいと思いますし、これから出店を考えておいでの趣味人の方々は、ぜひ中野をご検討いただければと思います。

一昨日から、夜にはセミの鳴き声がぱったり途絶え、リーリーリーと、虫の音が聞こえてくるようになりました。まさに手のひらを返すように秋到来。道ばたにはセミの死骸がたくさん転がっています。最近は温暖化で、本来は南方種のクマゼミが、東京でも普通に見られるようになったとか。これを拾って分類したりすれば、それだけで「自由研究」一丁上がりっ…てなわけにはいきませんかね。





 ラムネをお洒落に
     <2009/9/4(金)>

 昨日の話題は、壮大なる前フリでした。
今日が本編。

クレジットのことを、「ラムネ」なんて洒落て言った言葉がありました。
その心は…。
ゲップ。つまり月賦販売のこと。クレジットという言葉と月賦とでは、イメージが全然違いますよね。いまでは月賦なんて言葉、若い方はご存じないのでは?
現在は「ポイント狙い」などもあってカード払いも常識ですが、日本人は今も比較的「現金主義」の消費行動を好みますね。でもそれは近代に入ってからのことで、それまで日本では「節季払い」(お盆と大晦日に半年分のツケを払う方式)や、富山の置き薬のような「先用後利」の信用商売がむしろ主流でした。明治に入って商品流通が活発になると、さまざまな展示販売会が催され、高価な商品は月払いで支払うという形式が普及します。少し前までは、ピアノやミシンの購入は、そういう形式がまだまだ生きていました。

月賦をクレジットと言い換えるキャンペーンが始まったのは1960(昭和35)年、提唱したのは月賦百貨店として成長し始めた「丸井」でした。丸井は1955(昭和25)年から、「現金価格プラス5%」の月賦販売を開始していましたが、ゲップという言葉に嫌悪感を持つ人々の存在を考慮し、当時多くの人が夢見ていた「アメリカン」なイメージである「クレジット」を用いることを推奨したのです。なかなか目の付け所が良いですね。「クレジットカード」も導入。ただしこれは現在のカードとは違い、会員証のようなものでしたが。

丸井は「月賦百貨店」と言われますが、日本百貨店協会には属していません。店舗の形態は「百貨店」というよりも「専門店」に近いところがあります。メイン商材はファッション、そして家具・雑貨・宝石など。若者向けのスタンスを強く打ち出して、若年層でのシェアは非常に大きいものがあります。若い人は「丸井」というより「○|○|」でしょうし、百貨店と言うよりもファッションビルであると思われているのではないでしょうか。さまざまな「丸井系ファッションブランド」も確立。「月賦販売店」という古くさいイメージを完全脱却、むしろオシャレでハイセンスなイメージを見事、構築しています。

その丸井の創業の地は、実は中野です。
創業者である青井忠治さんは1904(明治37)年生まれで富山県出身。18歳で上京し、新宿にあった月賦販売の「丸二(まるじ)商会」に就職しました。苦節十年、1931(昭和6)年に、「のれんわけ」の形で丸二商会中野店を出店、軌道に乗った4年後に、商号を「丸井」と改ました。丸二の「丸」と、青井の「井」の合成です。しかし1941(昭和16)年に太平洋戦争が始まると、国策である「重要産業団体令」によって全店閉鎖に追い込まれてしまいます。けれども青井さんは不屈の闘志の持ち主で、戦後の1946(昭和21)年、家具販売を皮切りに月賦販売業「丸井」を復活させました。

丸二商会中野店は、家具をはじめ、洋服・呉服といった高額商品の月賦販売で発展しました。創業の地は、駅南口、今の中野通りの西、坂を上ったところの桃園通りで、そこは当時の中野のメインストリートでした。何しろ丸井創業の2年前まで、そこが駅前通りだったのですから。1936(昭和11)年に中野本店の店舗を中野通りに移転しています。
 戦後、1948(昭和23)年には新宿駅前店、1952(昭和27)年には池袋駅前店を開設するなど「丸井は駅のそば」の店舗展開を遂げますが、「本店」は依然として中野でした。

けれども、その「中野本店」は、「建物・施設の老朽化や品揃え等が充分にお客様にご満足いただけなくなったこと」(丸井広報)により、2007(平成19)年8月に閉店とあいなりました。中野住民のショックたるやなかったです。ふだんは地下の高級?スーパー「大丸ピーコック」やボウリング場くらいしか利用していなかったのに(苦笑)。屋上には、昭和レトロな遊戯施設がありましたっけ(遠い目)。

 …が、丸井にとって中野は創業地。今でも本社は中野駅の北口の巨大ビルにありますです。ですから本社のお膝元、創業の店舗をこのまま(当初予定していた)オフィス+住居ビルにしては名が廃る……なのかどうか知りませんが、中野区の要請を受けて、「丸井中野店(仮称)」として、来年2010年冬に復活することが決定しました。なんといっても商売のうまい丸井さんのこと。中野には、まだ将来性があると踏まれたのでしょう。

新しいビルは地上13階建て(延べ床面積21,931u)になり、商用兼オフィスの複合ビル。地下1階から地上5階までが商業フロア、店舗面積は約7000uだそうです。丸井得意のファッション・雑貨のほか、食品やレストランの導入も予定しているとのこと。奥様、大丸ピーコック復活ざーますわよ。現在、鋭意工事中です。今度はどんなお店になるんでしょう。今やファッション界の先頭集団である丸井。でも中野ですから、あんまり垢抜けたのもなんだかなぁ〜と、端から見る目で思います。「中野店」は(仮称)とありますから、お洒落な名前が付くのかも??

創業者、青井忠治さんの商売哲学は、
「丸井には不況はない。景気は自らつくるもの」
なんだそうです。
丸井は販売業のほかに金融業の側面もありますから、過去すべて100%真っ白ではない歴史もあったかもしれませんが、企業家の言葉としては感ずるものがあります。
不況、不況、100年に一度の世界同時不況、だなんていうマスコミの言葉に惑わされ、意気消沈し、負のスパイラルに陥っている日本、いや世界中の経営者の皆様。ぜひこの言葉を再度噛みしめていただきたいと思います。

ところで。
「ラムネ」=月賦のほかに、「アイス」=高利貸し、なんていう隠語もありました。アイスとはアイスクリームのことで、氷菓子。つまり高利貸し。ちゃんちゃん。それから「一六(いちろく)銀行」=質屋。1+6=7で、7屋=質屋、ということ。
お後が宜しいようで…。





 生き物を大切に
     <2009/9/8(火)>

 この週末、仕事で札幌に行って来ました。
さすが北の大地に計画的に整備された町並み。すっきりしていますね〜。京都のように碁盤の目のような道路配置、住所を「何条何丁目」と座標表記でピンポイントに伝えることが出来るのは便利です。道に迷わないですしね。

中央線沿線の道では、こうはいきません。もともとが地形に合わせて湾曲した田畑のあぜ道。自然のままにクネクネと曲がり、特に中野近辺では五差路が多いのも特徴。まったくわかりにくい道路配置です。ただ荻窪〜西荻窪の旧井荻村地域は、名村長の区画整理のお陰で、比較的整備されてはいますけれども…。

ところで。
中野区は人口密度日本一。狭幅員道路率は84.0%(23区中最下位)という、町並みゴチャゴチャの代名詞ですが、中野駅の北西、中野4丁目に限っては実に整然としています。中野区役所や体育館、旧警察大学跡地近辺で、道幅も広く並木も整備され、まるで札幌。中野通りをはさんだ東側、5丁目と比較すると、とても同じ中野とは思えません。
どうして4丁目がこんなにも整然としているのかと言えば、それはもともと広大で平坦な「空き地」があったからで、それが明治以降に軍用地となり、戦後にさまざまな官公庁の施設ができたため、民間の乱開発が防げた、ということによります。さてその「空き地」とは?

中野4丁目は、かつては「囲町(かこいちょう)」と呼ばれていました。現在も区役所のそばの一角に「囲町公園」という小公園があり、わずかにその名残をとどめています。囲町公園には、5頭の犬と2頭の子犬が遊ぶ銅像が設置されています。そう、ここ「囲町」の「囲い」とは、犬の囲い(ケージ)のこと。ここにはかつて「囲い場」と称する巨大な犬のケージというかドッグランというか、ともあれ古今東西例を見ない、犬の楽園があったのです。そう、あの「生類憐れみの令」を出した徳川五代将軍、犬公方として知られる、徳川綱吉の命で作られたものです。

囲い場(犬小屋)が中野村に完成したのは1695(元禄8)年10月29日のこと。その広さ、なんと16万坪にも及び、今で言うと、北は早稲田通りから南は中央線を越えて大久保通りまで。東は中野ZEROから西は環七あたりまでという広範囲さ。犬にかかわる経費は、食費だけでも年間9万8千両(今の100億円くらい?)というのですからスゴイ。これでも手狭になり、1698(元禄11)年には高円寺村まで拡張しています。
25坪の犬小屋が290棟、7.5坪の日除け場が295棟、子犬養育所が49あり、最盛期は約8万頭の犬が収容されていたそうです。犬小屋支配、犬小屋総奉行、犬小屋奉行、犬医師などの役人も置かれていました。こうした犬小屋の維持のために、江戸府内の民衆から、毎日米330石、味噌10樽、干イワシ10俵、薪56束などの「犬上納金」を納めさせていました。これだけ聞けば、まさに「天下の悪法・愚法」であると考えるのも仕方がありません。

どうして徳川綱吉は、こんな命令を出すことになったのでしょうか。従来一般論として言われて来たのは、綱吉の「儒学好み」と「跡継ぎ問題」、そして「マザコン」が影響していたという説です。綱吉は学問オタクと呼べるほど勉強(儒学)熱心で、また儒教の精神である仁愛を大切にしていました。動物愛護は仁愛のひとつですから、「生き物を大切にしましょう」というキャンペーンを張るのは、当然のこととも言えます。また後継者となる実子に恵まれなかったので、子宝祈願のために、綱吉の母である桂昌院が寵愛していた「隆光」というお坊さんの勧めで、「生類憐れみの令」を出したとされてきました。特に綱吉は戌年生まれであったため、犬を大切にしましょう、ということになった、というものです。

近年になって、この説は否定されつつあります。そもそも「生類憐れみの令」というのは単独の法令ではなく、一連の動物愛護令の総称です。最初の布令が出た段階では、隆光僧正はまだ江戸におらず、法令に関与していたことは考えられません。綱吉が単純に儒教の精神から「生き物を大切に」キャンペーンを打ち出したと考えるべきでしょう。最初の布令は1685(貞享2)年頃ですが、この年はまだ戦国時代の野蛮な気風が残っていた時代であり、「生き物を殺す」ということのタブーがそれほど確立されていなかった社会。さすがに人を直接殺害することは憚られても、病気の人間を村から追い出したり、牛馬を残酷に扱うことは当然視されていました。これを是正し、平和な社会を実現するためには、「生き物を大切に」キャンペーンは必要だったと思われます。
 また、実際に「生類憐れみの令」違反で厳罰に処された者が、想像されるよりは少ないこと、側用人「柳沢吉保」の日記にあまり登場しないこと、さらに次代の徳川家宣や新井白石の治世を良く見せようと脚色したことも考えられることから、この法令がどこまで厳密に施行されていたのか、よくわからないというのが現実のようです。ただし、飢饉の最中であるのに、犬1頭について1日に白米3合、味噌50匁(約187グラム)、干しイワシ1合を給食したことに対する江戸市民の憤りは大きかったことでしょう。

「人と犬の付き合い」が当時は今と違う、ということの認識も大切。その当時、庶民が犬を飼うという風習は一般的でなく、犬はほとんどが野良犬。しかも恐ろしい野犬(ただし狂犬病はまだ日本にはなかったとされます)として人間に危害を及ぼすこともしばしばでした。中野の犬小屋は、人と犬が町中で接触することによって生じるトラブルを防ぐためのものであって、「お犬様」を優遇するために設けたものではないという考え方もあるのです。庶民が犬を飼い始めたのは、この「生類憐れみの令」廃止後であるとも言われています。

綱吉は「生類憐れみの令を百年守ること」を遺言しましたが、その葬式が終わるのを待たず、1709(宝永6)年、六代将軍家宣は廃止を宣言します。当時の狂歌に
「見渡せば 犬も病気もなかりけり 御徒士小人のひまの夕暮」
というのがあります。犬小屋廃止でリストラされた犬医者をからかったものです。
中野の犬小屋も廃絶しましたが、そこに収容されていた犬たちはどうしたのでしょう?まぁ、犬小屋完成から14年も経過していますので、収容頭数もかなり減少していたはずではありますが…。かなりの数の犬を「処分」したようで、人々は気味悪がって寄りつかず、その後、囲い場は原野となり、将軍家の狩場としての他は、何の利用もされませんでした。つまり巨大な「空き地」になったわけです。これが中野4丁目が整然としていることにつながるのです。

綱吉時代を否定的にとらえた八代将軍吉宗は、1735(享保20)年に、跡地の一部(中野駅の南側)に桃の木を植え、大規模な桃園を設けました。これは観光名所となり、江戸市中から多くの観光客が集まりました。のちの『江戸名所図絵』には
「享保の頃此の辺の田畝に悉く桃樹を栽えしめ給ひ、その頃台命によりてこの地を桃園と呼ばせ給ひしといへり。今も弥生の頃紅白色をまじへて一時の奇観たり。」
とあります。
ところで桃は「邪気」を払う、聖なる果物とされます。吉宗が梅や桜ではなく桃を植えたのは、犬にまつわる因縁を払いたかったのかも??

吉宗の死後、桃園はウズラの狩場となりましたが、地名として残り、現在でも「桃園川」「桃園小学校」があります。また現在、高円寺北一丁目の道路が南北に直線なのは、犬小屋時代の名残りであるとも言われます。

「生き物を大切に」という精神は悪いことではありません。ただ、物事を偏執狂的に突き詰める、極端な性格であった綱吉の悪い面が、この法令を悪法にしてしまったのでしょう。政治的に激動期にある現在の日本。法の理念の正しさとともに、実施段階での庶民目線の気配り・手配り・目配りは、しっかりやってほしいと思いますね。皆様と共に期待しましょう。





 演劇の街
     <2009/9/30(水)>

 このところ、演劇関係のお話しが続いております。
正直申し上げまして、私はそういった方面にはまったく疎いため、偉そうなことは何一つお話しできません。ただ、先日、ある小劇団の衣裳関係の協力をさせていただいたことがあり、それがご縁で公演に招待されたことがあります。そこで小演劇の楽しさと深さを初めて体感させていただき、つくづく感じました。なるほどこれはハマる人はハマるな、と。

あ、ここで自慢話をひとつ。
小演劇ならぬ大演劇、それも、泣く子も黙るスミレの園、「宝塚歌劇」で、衣裳関係のお手伝いさせていただいたことがあります。その関係で招待券を戴いたのは良いのですが、座席が前から2番目というプラチナチケット。熱心な「ヅカファン」でも、一生に一度もそんな席には座れないと言う場所です。もう舞台からの熱気がモロに伝わってくるような席でした。
それは良いのですけれど、なにしろ周囲は高級なお召し物で着飾った、「いかにも」というような女性ファンばかりですから、私のようなオジサンの浮くこと浮くこと。向こう様も「なんでこんなオヤヂがここにいるんざましょ」といった視線を投げかけてくるし、なんとなく針の筵のような印象でした。ま〜一生の思い出ですね。

演劇にはその程度の知識と経験しかないのですが、先述の小劇団公演で、ある程度「小演劇って楽しい」と思い始めた私。下北沢に対する(根拠も言われもない)対抗心から、中央線沿線にもさらに小劇場が増え、小演劇文化が隆盛して欲しいと願っているのでございます。

中野には、公的な施設として区立の「なかの芸能小劇場」というのがあります。場所は北口、ブロードウエイと中野通りの間、社会福祉協議会のビル「すまいる中野」の2階です。落語・演芸公演などに適したホールで、客席は110席。区立の施設ですから、区民であれば申し込んで安く使えるのですが、プロも使っているために相当先まで空きはないでしょう。ワンコイン(500円)寄席なんていうのも開かれたりします。
以前ここで、サンミュージック所属の若手お笑いタレントの公演を(これまた招待で)見たことがあります。客席の投票で「一番つまらない芸人」を選び、次回からは出られなくなると言うサバイバル公演。過酷ですが、結局アウトになった人は「そりゃそうだよなぁ」という感じでした、やはり。でもテレビと違って、ナマで見ると盛り上がりますね。これが劇場の良さなんですね〜。

中野は南口に小劇場が集まるゾーンがあります。まさに下北沢「本多劇場」グループの雰囲気。南口から中野通りを越えて坂を上り、桃園通りを南下、南西方向に入り、そのまま進めば大久保通りを越え、「にこにこロード」商店街を経て、青梅街道の東高円寺駅に至る細い道があります。劇場はその道の途中の中野寄りで、駅から徒歩5分くらい。中野らしい狭い道の住宅街にあるので、きっとビックリしますよ。なんでこんな住宅街に劇場が?と。

劇場は「ザ・ポケット」と「劇場MOMO」。ポケットのほうは赤煉瓦風の3階建てで、『七人の刑事』(激古)でおなじみの、旧警視庁風とでもいうのか、円筒形が目立つお洒落な建物。座席数は166と、「なかの芸能小劇場」よりも大きいです。外から見るとそうでもないのですが、中にはいると案外の広さ。MOMOは、ポケットから路地を隔てた斜め向かいに位置していますが、四角いビルの壁面がモザイク状に彩られた、洗練された上品な外観です。こちらは92席と、やや小さめ。どうしてMOMOなのかは存じませんが、ひょっとして「桃園」の「もも」?? ポケットのオープンは1998(平成10)年ですから、もう10年以上になるわけですが、今も綺麗なままを保っているのはさすが。MOMOは2000(平成12)年のオープンです。

この2館だけでも有名無名の劇団の公演が目白押しだったわけですが、「もっと表現したい!発表したい!」という若手演劇人の声に応えて、さらに隣接地に劇場が出来ることになったのです。それが「テアトルBONBON」(120席)と、その地下の「劇場HOPE」(70席)。MOMOの隣と言いますか、ポケットの路地向こうと言いますか、ともかく隣接地です。これだけまとまって小劇場群が構成されるとなりますと、ちょっとした「劇場街」でして、演劇人たちは総称して「ポケットスクエア」なんていう呼び方をしているそうです。

BONBONのこけら落とし公演は、今度の土曜日、10月3日から、東京ボードビルショーによる喜劇『その人、女優?』 。東京ボードビルショーといえば、佐藤B作さんや、山口良一さん(私、面識有り)などを抱えるメジャーな劇団ですから、たくさんの来場者を数えることでしょう。公演は12日(月)までですので、ぜひご覧になってくださいませ。私も行ってみようっと(まだチケットとれるのかな?)。
北口と比べて、商業的になんとなくさびしい中野南口ですが、桃園通りも良い感じに栄えていますし、ポケットスクエアがきっかけで、下北沢化することも夢物語ではないように思います。

ところで、ポケットスクエアの運営母体は、多角的な事業展開の「笠原工業グループ」の中で、ビル管理をされている「司株式会社」さん。笠原工業さんは、1878(明治11)年に生糸製造業として創業され、営々と事業を拡大された企業。オーナーの笠原さんは、まぁ簡単に言えば「お金持ち」なのですが、そのお金を文化事業に活かされているのはさすが。本当のお金持ちは、お金の使い方をよくご存じです。ポケットスクエアは、もともと司さんが管理運営されていた古いアパートの跡地に、「若い演劇人に発表の場を」と、建設されたそう。「中野なら需要があるのでは?」とは、なんとも素晴らしい先見の明ですね。

司さんでは、中野の「ポケットスクエア」のほか、高円寺南口にライブハウス「KOENJI HIGH」、国分寺駅周辺に、舞踏用のスタジオ、バレエスタジオ、19室の貸アトリエ、そして画廊を開設し、若きアーチストたちに修練と表現の場を提供し、応援されています。実に素晴らしいことだと思います。それも特に中央線沿線に展開されていることについて、中央線を愛する私として、賞賛の拍手を惜しみません。

中野には大演劇?のために、全国区の知名度を誇る「中野サンプラザ」(2,222席!)があり、また南口には「なかのZERO」のホールもあります。こうやって改めて考えてみますと、中野は大変な「演劇の街」と言って過言ではないのではないでしょうかね。中野区は芸人さんの人口が多く、東京在住の若手芸人さんの4割が中野区に住んでいるという話しもあります。むかし、夢を見て上京して来る芸人志望の若者たちは、「とりあえず浅草に行こう」と考えたそうですが、いまは「中野に行こう」なんだそうです。 そうした人たちの夢を叶える「受け皿」として、こうした表現・発表の場が増えてくれると良いですねぇ。





 まつり!まつり!
     <2009/10/6(火)>

 今日もまた雨。どうやら雨季「秋霖」に入ったようですね。しかも木曜日あたりには猛烈な台風が関東地方にも訪れる可能性があるとか。今年の関東地方は、台風の直撃を避けてこられたのですが、今回はヤバイかもしれません。自然の威力を前にしては、人間はまったく無力なのであります。「地球に優しく」なんていう言葉は、不遜以外の何者でもありません。自然、地球が「その気」になれば、人類など芥子粒のように吹き飛ばされてしまうでしょう。人類は、地球の手のひらで好き勝手に暴れているに過ぎないのです。自然に対しては、畏敬の念で接するべき、と私は思います。

日本人は、古代から自然に対する畏敬の念を持ち続けてきました。カミというのは上下の上(カミ)と同じことを意味する言葉で、「自分たちを超えた存在」ということ。ある意味、「自然」と同義語と言えましょう。このあたり、キリスト教のGOD(造物主)とは異なるもので、同じ「神」と訳しますと、受けるニュアンスに誤りが生じてしまいます。現在、さかんにエコロジーが叫ばれていますが、その考えは、日本人が古代から持ち続けてきた意識に近似している、と私は考えています。

秋はお祭りのシーズン。お祭りは神社で行われる春秋の「例大祭」をもとにしているものが多く、春の場合は「豊作の祈願」、秋の場合は「豊作の感謝」をするもの。このうち秋の方が、春より余計に盛り上がるようです。実際、例大祭は秋だけ、という神社も多いですね。こうした秋のお祭り重視はなぜか。それは、日本人の神様に対する意識が、「お願い」するより「感謝」する対象である、という考え方によるように思えます。「自分の成功は、自分以外の者のおかげ」とする考え方ですね。つまり「お陰様で」ということ。このあいだ、台湾の方がやっている中野の串焼きのお店で、台湾には「いただきます」のように、食事のスタートを告げる合図はないのかと聞きましたら、「ない」とのこと。キリスト教の神様に対する感謝の言葉とも、ちょっと違うようで、この「いただきます」は、日本人独特の意識なのかもしれませんね。

よく「勤労感謝の日は、むかし『新嘗祭』といって、収穫感謝祭だった」と説明されますが、私は違う見解を持っています。いま勤労感謝の日は11月23日に固定されていますが、本来の「新嘗祭」は旧暦11月の「中の卯」の日。今年で言えば……1月5日ですよ、来年の。いくらなんでも新米を収穫する時期からすると遅すぎやしませんか?
つまり「新嘗祭」は、「新年の儀式」であると考えられるのです。それも古代の「冬至を正月とする」考え方による「新年」。冬至正月はキリスト教の考えでも同様で、クリスマスは元来、冬至=正月の祝いでした。これは古代ローマの「立春を正月とする」という旧暦の考え方とは異なるものです。世界史的視野から、時代・地域別に冬至正月と立春正月を調べると、なかなか興味深いですよ。ちなみに、キリスト教の立春の祝いは「復活祭」として残っています。

では、日本には「収穫感謝祭」は無いのか? いえ、もちろんあります。伊勢神宮に今年の収穫を奉納する「神嘗祭(かんなめさい)」という儀式があり、これは旧暦の9月17日の日付行事。この日が伊勢神宮の装束や祭具を新しくする、いわば「正月」にあたります。今年の新暦では11月3日。まさに収穫感謝祭には打ってつけじゃないですか。私は神嘗祭こそが、日本古来の収穫感謝祭である、と確信しています。

中央線沿線の駅近くにも神社があり、そのお祭りがあります。
私がときどきお邪魔する高円寺氷川神社の例大祭は、8月27・28日。ずいぶん早いな、と思いますが、実はむかしは9月17・18日でした。それが「台風の影響等で雨天の日が多いため」ということで、昭和32年度から8月に変更されたとのこと。この柔軟さが日本人的で良いですね〜。
阿佐ヶ谷の駅近くには阿佐谷神明宮があります。こちらの秋の大祭は例年9月の第3土日。今年は「平成の大改修」のために、10月17・18日です。まだ間に合いますよ! こちらで奉納される「阿佐ヶ谷囃子」は、杉並区の無形文化財。
西荻の駅から歩ける、善福寺公園そばの井草八幡宮(巨大な由緒有る神社)の例大祭は、毎年10月1日の固定で開催。
全体的に昔と比べて、大祭の日程が早まる傾向にありますが、これは集客的に「夏休み」にからめたいことや、遅くなって七五三とバッティングしてもいけない、という配慮(事情)があるらしいです。
高円寺・阿佐ヶ谷共に、例大祭の御神輿が実に素晴らしい。ガラス張りの見事な御神輿常設展示場?がある高円寺氷川神社はもちろん、阿佐谷神明宮も大祭には14カ所の神輿が集結。一斉巡幸する姿は見事なものです。スターロードなど飲屋街の経営者、大将や女将、ママさんたちも仲良く神輿を担ぎます。経営者同士の仲間意識が強い、阿佐ヶ谷の飲屋街ならではの光景です。

中野のお祭りは(高円寺ではない)氷川神社の祭りですが、実はこの氷川神社、中野駅ではなく東中野駅が最寄り駅。駅から山手通りを南下して約5分です。こちらは1030(長元3)年に、源頼信(八幡太郎義家の祖父)が「平忠常の乱」討伐の際、大宮の氷川神社より勧請した神社とか。大変に由緒があるため、旧中野村の総鎮守社とされました。そういうことで中野のお祭りはこちらメインで、例大祭は毎年9月15日です。

ながながと神社のお祭りを書きましたが、何を言いたかったかと申しますと、「中野まつり」が今度の土日、10・11日に開催される、ということなのです。こちらは区の祭りで、神社とは直接の関係はございません。今年(2009年)で34回を数えます。

いま、中野駅の北口改札を下りますと、いくつもの提灯を飾った装飾がなされ、夜は実に華やかですが、これが「中野まつり」。サンプラザ前をメイン会場とし、区役所周辺からドコモビル、中野体育館、さらにやや北に遠い「平和の森公園」や、中野ZERO隣接の「紅葉山公園」など、駅周辺の各所で盛大な催し物があります。メイン会場では、数多くの「おはやし」「チアダンス」、舞踊に和太鼓演奏など盛りだくさん。また、みんな大好き各種の「屋台」もたくさん出ます。すべて区民の手作り参加。警察の「薬物乱用防止キャンペーン」や消防の「防災展」、害虫相談や税務相談。いくつもの姉妹都市の物産展。忘れちゃいけない沖縄の獅子舞やエイサーの演舞。……なんと申しますか、中野区のパワーが一挙に集結しているような、すばらしいイベントです。

私は別に、まつりの関係者ではありませんが、ぜひ皆様にもご覧戴き、体感していただければと思います。なんといっても日本人は、何千年も前からお祭り好き。飲めや歌えが「神様の心にかなう」ものとして大切にされてきたのです。大いに楽しみましょう♪
ただ……。両日共に、台風一過の晴天であることを、心から祈りたいと思います。





 商店街活性化
     <2009/10/15(木)>

 いま、全国の商店街では「シャッター通り」が大問題になっています。
実際、地方都市はもとより、東京近郊でも少し駅から離れた立地にあると、シャッター通りは、よく目にするところです。商店街好きの私にとっては非常に悲しい光景ですし、これから車を運転できない高齢者が増えれば「買い物難民」となって大問題です。この商店街の衰退には、様々な理由があるでしょう。

よく言われるのは、大規模小売店舗法(大店法)が改正されたことで郊外型大規模ショッピングセンターが多数建設され、それによるドーナツ化現象が起きたことによる、というもの。よくこれが「小泉構造改革」とからめて語られますが、大店法改正は、1990(平成2)年の「日米構造協議」で大規模店舗の出店調整期間が1年半に上限設定されたこと(いわゆるトイザラス問題)に始まり、1994(平成6)年には1,000u未満の出店が自由化され、そしてついに2000(平成12)年に大店法廃止、という流れをとりました。一連の流れは、まだ日本が対米的に強い時代の「ジャパンバッシング」や、その後のバブル崩壊後の「失われた10年」の影響が大きいのではないでしょうか。小泉内閣は2001(平成13)年に成立していますから、大店法改正・廃止には直接は関わっていません。むしろ、1990年のアメリカ迎合の旗振り役であったのが、当時の自民党幹事長であった小沢一郎さん、つまり現在の民主党の幹事長であるというのも、歴史の皮肉ですね。

大店法に代わって1998(平成10)年に整備されたのが、いわゆる「まちづくり三法」。大規模小売店舗立地法・中心市街地活性化法・改正都市計画法です。これら、特に後二者は、市中心部にある旧来の商店街を保護することを意図したものでしたから、政府は「それなりに」努力をしたと見るが公平だと、私は思います。
郊外型大規模店舗の増加は、機を見るに敏な実業家の先見性によるもので、まだ大店法改正が噂もされない1987(昭和62)年に、イオン(当時ジャスコ)グループの岡田卓也社長(岡田克也外務大臣のお父様)が、社内にプロジェクトチームを作り、大店法廃止後の戦略を練っていたそうです。なんという先見性。だからこそ、あっという間に地方に大規模ショッピングセンターが建設出来たのでしょう。

それに比べ、失礼ながら商店街の店主の皆さんの行動は、いささか旧弊墨守、因循姑息なところがあったように見受けられます。原則的に世襲であり、一国一城の主であることの多い店主たちは、商店街をひとつの「有機的構造体」として見ようとせずに自店単独で行動しがち。自らの業態を変化させたりすることに積極的でなく、消費者の意識やライフスタイルの変化に追いついていかなかった、という側面は否定し得ないでしょう。また店主の高齢化と後継者不足が、そうした保守的傾向に拍車を掛けているということも、間違いのないことだと思われます。
そうした面を見ないで、ただ「政府が悪い」「イオンが悪い」と大規模店舗側を規制圧迫し、旧来店舗の既得権益を保護するといった方向は、むしろ消費者の権利と立場を蔑ろにするものとさえ言えましょう。

中野の北口商店街「サンモール」は今日、平日の昼間も賑わっています。なかには閉店する店もありますが、たいていすぐに次のテナントが入ります。どこにでもある「チェーン店」系店舗もありますが、頑張っている個人商店も多いのです。もちろんそれも素晴らしい!
でも変に頑張らず、どんどん他人に貸して、新業種の店舗を導入することも商店街の「血の入れ替わり」になり、新陳代謝が進んで、いつでも魅力有る商店街で在り続けることが出来る、という意味では大切です。衰退商店街には、他人に「貸す」ことを嫌う店主が多い傾向が見られるようです。

とはいえ、中野北口の商店街がこれだけ活性化している理由として、サンモールの突き当たりにある「ブロードウエイセンター」のお陰、ということは誰しも否定できないでしょう。さらにそのブロードウエイの活況が、「まんだらけ」の吸引力?によるものだということも、また多くの人が認める事実だと思います。
「まんだらけ」が扱う漫画やアニメなどのサブカルチャーは、いわゆる「おたく」という、一種の「変わり者」とされる人々が好むものであり、他者の文化価値を認め合う意識を持たない方からは、否定的に受け止められる場合もあります。実際、古くからの中野在住の方から、そういう声を聞くこともありますが、もしもブロードウエイに「まんだらけ」がなかったら、今の中野がどうなっていたのか、想像も付かないと声を揃えます。事実、「まんだらけ」が2008(平成20)年、秋葉原に自社ビルを建てたとき、「まんだらけは中野から撤退するのではないか」という憶測が、いくばくかの「恐怖」も交えて語られました。

「まんだらけ」は、古川益三さんという漫画家さんが、1980(昭和55)年に創業した、漫画の古本屋さんから発展したものです。今では本や雑誌だけでなく、フィギュアやコスプレ用品など、漫画・アニメに関わるありとあらゆる商品を扱っています。古川さんはもともと、知り合いの方が調布で営んでいたお店を手伝うことから始められたそうですが、自らの経営としてからは中野ブロードウエイに移転。これも今にして思えば、大変な先見の明です。いや、当時ほとんど無価値のように扱われていた、漫画雑誌の古書店、という発想そのものが先見の明ですね。
どうして中野ブロードウエイに出店されたのかは存じませんが、調布に移住されるまで、古川さんは中野区沼袋にお住まいだったそうですから、地の利はあったのでしょう。中野、中央線沿線のサブカルチャー嗜好を、よくご理解されていたからだと思います。

ブロードウエイでは、2階の人通りの少ない場所(2坪)からスタート。そのとき仲介された不動産屋さんは私の知り合いなので、よく話しに聞くのですが、古川さんは立地にはあまりこだわらず、店前の人通りには無関心だったそうです。つまりこういう趣味性の強い商品は、通りすがりの「一見さん」ではなく、わざわざ「目指してくる客」が買うモノだ、ということを見抜かれていたわけです。中野駅徒歩5分という立地ならば、店前そのものの通行量は問題ではない、と。
その代わり宣伝には力を入れておいでだったようで、自らサンドイッチマンになって、サンモールを流して歩いていたそうです。

結果としては、開店早々から大盛況の大当たり。まさに時代のニーズに応えた創業だったわけですね。ブロードウエイの既存店舗は衣類を扱うお店が多かったのですが、ブロードウエイ開設当時(1966年)の栄光は去り、それこそシャッター街になりそうな雰囲気濃厚でした。古川さんは、それならばと、閉店したブースに知り合いのサブカル系店舗を呼び、少しずつブロードウエイ全体をサブカル風味にして行きました。

そうしたことが可能であったのは、ブロードウエイが区分所有の集合体であったから。通常、ショッピングビルは一人(1社)の所有者がすべてを管理し、全体のイメージを調整しながらテナントを入れます。入店審査は厳しく、年間の売り上げが一定の水準に達しないと、容赦なく退店させられます。
けれどもブロードウエイの店舗は、その多くが細かい区分所有ですから、全体的な統制が図られることなく、どんどん雑多なテナントが入居できる余地があったのです(地下のアパレルゾーン「プチパリ」は、一人のオーナーが全体を管理されています)。また、新しいビルであるブロードウエイの所有権者は、「先祖代々」という意識はありませんから、自らが廃業すると、どんどん他人に貸しました。こうして常に活性化する余地が出来たのです。

家主として、少しでも多くのテナントを入れようということから、家賃を下げる意味でブースを細分割したことも、「雑然感」を生みました。もともとフロア通路の構造が、クネクネと複雑であったことに加え、このゴチャゴチャ感がサブカルチャーの雰囲気にジャストフィットし、余計に魅力を増したのは、ある意味では偶然の産物であり、皮肉ですらあります。ブロードウエイがよく「迷宮」とか「魔窟」などと呼ばれるのは、こうしたゴチャゴチャ感を良しとする人たちによる、肯定的、好意的な愛情表現なのだと思います。

以前からご商売をされていた方の中には、こうした「ブロードウエイのまんだらけ化」を好まない方も、当然いらっしゃいました。けれども、日本中はおろか海外からもたくさんの人がブロードウエイを訪れる実績を目の前にしては、否定し続けることは困難です。現在では平和的共存が図られているそうです。

実際の所、ブロードウエイの1階と地下は普通の地元密着型商店街(しかも激安)ですし、まんだらけの多い2階3階にも「普通の」店が並んでいます。セーラー服の並ぶお店があるのでコスプレのお店かと思ったら、ちゃんとした学校指定服の真面目?な洋服屋さんだった、なんてことも。そこでは老若男女が入り乱れて、みな幸せそうにショッピングを楽しんでいる光景が見られます。
この「オタク」と「一般人?」の平和的共存というのは、オタクの人たちにとって非常な驚きであるようです。私は「オタク」というのは「趣味人」であり、むかしの表現では「数寄者」というような人であって、決して後ろめたい特異な嗜好を持つ人とは思いません。むしろオタク側に(たぶん自意識過剰による)被迫害者意識があるようで、こうした平和的共存が、実は希有なことなのだ、と熱く熱く語ってくれます。

私は平和的共存の理由の一つとして、ブロードウエイには、秋葉原に見られるようなエロチックなお店が無い、ということが言えると思います。当たり前のことですが、女性が一人で、何のためらいもなく遊びに行けるのです。秋葉原はどちらかというとゲーム系で、ブロードウエイは漫画本系。デジタルとアナログの違い、とでも申しますか、ブロードウエイには、秋葉原にはない「安心感」があることは事実です。

中野ブロードウエイと「まんだらけ」の成功は、たぶんに偶然の産物であることは否めません。東京という、人口稠密地域の立地であることも、当然ながら前提条件です。
けれども、商店街活性化のためには、店主と商店街の「柔軟性」がいかに大切か、ということの、ひとつの大きな実験例、しかも成功例であるとも思います。
そしてまた、融通無碍な柔軟性と、自らのモノサシとは違う価値観・文化意識を尊重しあえる「中央線文化」が、この成功につながるカギとなったのではないかと、私は思います。





 ヴィヨンの妻
     <2009/10/24(土)>

 中央線人でもある、太宰治の短編小説『ヴィヨンの妻』が映画になり、いま大ヒット上映中です。

この『ヴィヨンの妻』において、松たか子演じる主人公「さち」が働く小料理屋が、終戦直後の中野駅北口にあるという設定なのです。
小料理店の背景の塀に「栄養食配給所」の看板と並んで「中野区打越町」の住居表示板が見えます。
そうです。中野駅前の現在の中野5丁目、ここはかつて「打越町」と呼ばれていました。
現在も町内会は「打越町会」です。なにせ私、つい先日に町会費(年1200円)を納めたばかりですから(笑)。

原作で、小料理屋「椿屋」の主人が自己紹介をするとき、こう語っています。

「私ども夫婦は、中野駅の近くに小さい料理屋を経営していまして、私もこれも上州の生れで、私はこれでも堅気のあきんどだったのでございますが、道楽気が強い、というのでございましょうか、田舎のお百姓を相手のケチな商売にもいや気がさして、かれこれ二十年前、この女房を連れて東京へ出て来まして、浅草の、或る料理屋に夫婦ともに住込みの奉公をはじめまして、まあ人並に浮き沈みの苦労をして、すこし蓄えも出来ましたので、いまのあの中野の駅ちかくに、昭和十一年でしたか、六畳一間に狭い土間附きのまことにむさくるしい小さい家を借りまして、一度の遊興費が、せいぜい一円か二円の客を相手の、心細い飲食店を開業いたしまして、それでもまあ夫婦がぜいたくもせず、地道に働いて来たつもりで、そのおかげか焼酎やらジンやらを、割にどっさり仕入れて置く事が出来まして、その後の酒不足の時代になりましてからも、よその飲食店のように転業などせずに、どうやら頑張って商売をつづけてまいりまして、また、そうなると、ひいきのお客もむきになって応援をして下さって、所謂あの軍官の酒さかなが、こちらへも少しずつ流れて来るような道を、ひらいて下さるお方もあり、対米英戦がはじまって、だんだん空襲がはげしくなって来てからも、私どもには足手まといの子供は無し、故郷へ疎開などする気も起らず、まあこの家が焼ける迄は、と思って、この商売一つにかじりついて来て、どうやら罹災もせず終戦になりましたのでほっとして、こんどは大ぴらに闇酒を仕入れて売っているという、手短かに語ると、そんな身の上の人間なのでございます。」

終戦直後、中野駅の南北には100軒以上のヤミ露店があったそうで、「中野には何でもある」と言われていたそうです。サンプラザのところは戦前は憲兵学校でしたが、戦後は進駐軍の憲兵司令部になっていました。そのお膝元は、ある意味で治外法権的になって、経済警察も手が出せなかったのかもしれません(想像ですが)。
映画『ヴィヨンの妻』の描写は、そんなヤミ市の雰囲気を濃厚に描いていますね。
その後、中野駅前広場の整理がおこなわれ、商店街を形成しました。露店商は「中野娯楽場」という2階建ての建物に入り、固定した商店へと発展しました。1952(昭和27)年のことです。

さて『ヴィヨンの妻』。
結局(どうしようもない)ダンナの借金を返済するために(ダンナが返すまでの人質という形で)、主人公は小料理屋で働くことになります。最初に小料理屋に行ったときのシーンは、こう描かれています。

まず自宅のある小金井から吉祥寺に行き、子どもと井の頭公園へ。

「駅の前の露店で飴を買い、坊やにしゃぶらせて、それから、ふと思いついて吉祥寺までの切符を買って電車に乗り、(中略) 吉祥寺で降りて、本当にもう何年振りかで井の頭公園に歩いて行って見ました。池のはたの杉の木が、すっかり伐(き)り払われて、何かこれから工事でもはじめられる土地みたいに、へんにむき出しの寒々した感じで、昔とすっかり変っていました。
(中略)
 その池のはたのベンチにいつまでいたって、何のらちのあく事では無し、私はまた坊やを背負って、ぶらぶら吉祥寺の駅のほうへ引返し、にぎやかな露店街を見て廻って、それから、駅で中野行きの切符を買い、何の思慮も計画も無く、謂わばおそろしい魔の淵にするすると吸い寄せられるように、電車に乗って中野で降りて、きのう教えられたとおりの道筋を歩いて行って、あの人たちの小料理屋の前にたどりつきました。」

原作は短編なので、映画ほど様々なエピソードは描かれていません。
(むしろ原作以上に、太宰治という人物像を深く描こうとした努力が脚本に見て取れます)
ダンナである小説家、大谷にあこがれているという青年。映画では妻夫木聡が演じています。いろいろと葛藤が描かれますが、原作では、さちは、あっさりと「陥落」してしまっています。

「若いひとは、雨の中を帰って行きました。
(中略)
「奥さん、ごめんなさい。かえりにまた屋台で一ぱいやりましてね、実はね、おれの家は立川でね、駅へ行ってみたらもう、電車がねえんだ。奥さん、たのみます。泊めて下さい。ふとんも何も要りません。この玄関の式台でもいいのだ。あしたの朝の始発が出るまで、ごろ寝させて下さい。雨さえ降ってなけや、その辺の軒下にでも寝るんだが、この雨では、そうもいかねえ。たのみます」
「主人もおりませんし、こんな式台でよろしかったら、どうぞ」
 と私は言い、破れた座蒲団を二枚、式台に持って行ってあげました。
(中略)
 そうして、その翌る日のあけがた、私は、あっけなくその男の手にいれられました。」

あっさりしたものです。
そしてそのあともけろりと

「その日も私は、うわべは、やはり同じ様に、坊やを背負って、お店の勤めに出かけました。
 中野のお店の土間で、夫が、酒のはいったコップをテーブルの上に置いて、ひとりで新聞を読んでいました。コップに午前の陽の光が当って、きれいだと思いました。」

このあたりの描写、『人間失格』とだぶるところがありますね。

さて中野駅北口は戦後の混乱を乗り越え、立派な商店街を形成しました。
はやくも1948(昭和23)年に第一次駅前開発が行われ、商店街は「中野美観商店街」となって、入口にはネオンサインのあるゲートが設置されます。
「美観商店街」というのは、なんとも不思議な名称ですが、これは東京都の条例(昭和23年4月27日)によるネーミング。
「美観商店街は、都民の社会生活の中心となる商店街にこれを指定して、特にその街路の美化に意を注ぎ、都民の美的観念の昂揚を図り以つて都市全域の美化に役立たせようとするものである。」
という主旨で、つまりあまりにも無軌道に発展したヤミ市を整理しようと言うものでした。31箇所が指定され、中野にもそれが出来たわけ。現在でも、北千住など都内各地に「美観商店街」の名前は残っています。

中野美観商店街は、1958(昭和33)年にアーケードがつくりました。さらに1966(昭和41)年、当時流行の最先端を行った「中野ブロードウェイセンター」が完成しますと、その主玄関として相応しいように改装がおこなわれ、歩道は大理石舗装、大型シャンデリア照明を設置。非常な近代化が図られます。
そして1975(昭和50)年にアーケードが改装された際、商店街の愛称を公募して、現在のように「サンモール」と命名されました。

私が最初に中野を訪れたのは「サンモール」になった後のこと。
いま「銀ダコ」があるあたりに、ヘビ屋「竜昇堂」があったのが強烈な思い出です。ショウウインドウの中で、たくさんのヘビがうねうねと動いていました。聞くところによると、ときどきヘビが脱走して大騒ぎになったとか、ご主人がヘビに噛まれてうんぬん……。

映画の話しが、商店街話しになったところで、今日はお開きに。





 学園祭
     <2009/10/30(金)>

 早いものですね。もう10月も終わろうとしています。今度の日曜日から11月。ほんと、アッという間ですね。

この季節、学校は学園祭シーズンに入ります。私に関連ある学校は世間様よりもちょっと遅い学園祭なのですが、通常は「文化の日」にからんだ11月上旬が多いんじゃないでしょうかね。「文化の日」は10月10日と並ぶ「晴の特異日」で、お天気に恵まれます。なにか行事を行うときは、お天気が重要になりますから、ここに絡めるのは得策だと思います。なんで11月3日が晴の特異日かはわかりません。その昔、大先生に聞いてみたところ、
「そりゃおまえ、明治天皇様の御遺徳じゃぞ」
とのこと(笑)。11月3日は戦前の「明治節」。つまり明治天皇の誕生日でしたからね。

大学の場合、たいていは学園祭期間は前後も含めると1週間くらいが設定され、休講になります。学園祭に興味のない学生さんにとっては大きな「秋休み」になるわけで、この期間、旅行に行ったりしています。私は、ともかくお祭り大好き人間なので、こうしたイベントとなると通常以上、必要以上に張り切って、毎晩徹夜も辞さず、といった調子で活躍?したものです。ですから、学園祭に参加しないで旅行に行くという学生さんの気持ちが理解できません。

教職員にとっては、学園祭は大変ハードな期間でありまして、たとえ授業はなくとも、安全かつ快適に運営するための裏方仕事が山のようにあるものです。開催日には広く一般の皆様にキャンパスを開放しますから、正直言って何が起こるかわかりません(そのため、一部のお嬢様系女子大では、招待券がないと入校できないシステムを導入しています)。いえ、単に事件的なトラブルだけでなく、事故も恐い。大学は基本的に成人を対象にしているため、手すりや柵が大人サイズになっています。小さなお子さまは、すり抜けて落っこちてしまう危険もあるわけ。こういうことは恐いですよ。

とはいえ、先述のように私はイベント大好きですから、そんな苦労も苦労にゃならぬ。わーわー騒ぎながら、この期間を楽しんでおります。何のご縁もない学校の学園祭にも、ヒマがあれば、出かけるようにしています。

中野の場合、区内には大学が少数です。すぐに思いつくのは国際短期大学ですが、ここは西武新宿線の沼袋駅が最寄り駅で、中央線とはちょっと離れています。この国際短大は、戦前の「中野高等無線電信学校」が母体で、ここには陸軍中野学校が絡んで色々エピソードがあるのですが、それはまた別の機会に。

そういうわけで、今のところ(将来は、警察学校跡地に早稲田・明治・帝京平成の三大学が来る予定)、中野駅周辺には大学はありません。で、中野北口民として毎年楽しみにしておりましたのが、北口周辺にわらわらと校舎がある「織田学園専門学校」の学園祭でした。織田学園には様々な学科がありますが、ファッションとか調理とか、素人がすぐに楽しめる?内容の専攻ですから、単なる模擬店めぐりではなく、実際のプロフェッショナルの卵たちの力作を楽しめるものでした。

特に調理に関しては1000円前後の「なんとか御膳」というのが素晴らしく、コストパフォーマンスも最高なので大人気。早いうちに整理券を手に入れておかないと、ありつけないほどの人気ぶりでした。彼らにとっては接客も勉強のうちですから、学生バイト気分ではない、本当に見事な接客術も披露してくれて、それもまた気分が良い物。もちろん料理の味のほうもバッチリでした。
※余談ですが、かつて織田学園の日本料理の先生でいらっしゃったN先生は、人気アイドルグループ「A」のN君のお父上とか。中野北口界隈では、もっぱらの噂。

「でした」と、過去形で書いたのはワケがあります。
実は今年(2009年)から、織田学園の秋の学園祭がなくなってしまったのです。きっと「よんどころない」ご事情があってのご決断とは思いますが、楽しみにしておりました部外者としましては、ちょっと…、いえ、かなり残念です。学生さんもどうなんでしょう。もしも私のような、お祭り大好き人間だとしますと、衝撃的にガッカリしたのではないかと拝察いたします。秋の学園祭にかわるものとして、2月に「卒業記念祭」というのを開催されるそうですのが、どうやらお客様のターゲットを高校生1・2年生にしぼった「広報活動」がメインとなるらしく、ちょいと残念。

織田学園さんは、水曜日に「パティスリーODA」という臨時売店?を開設して、良質な洋生菓子をお安く販売してくれています。この11月も、11日・18日・25日に11:00から販売されますので、せめてそれを購入して我慢しましょうか。この「パティスリーODA」は、中野民にとっては有名なもので、人気がありますから、かなり早いうちに売り切れ終了になってしまいます。お早めにどうぞ。