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 中央線徒然草


 カウンターカルチャー
     <2009/7/5(日)>

 いわゆる「中央線文化」を語るキーワードの一つに「カウンターカルチャー」というものがあります。
「対抗文化」と訳されるこの用語は、ヒッピー文化に代表される、1960〜70年代に世界的に注目された文化現象です。高い評価が固定された文化、伝統的な文化に対して、批判的な文化をそう呼んだようです。いつの時代にもある世代相克の一種とも言えますが、ベトナム戦争の行き詰まりなど、当時の難しい世相が影響したこともあるのでしょう、一世を風靡しました。

私もしょっちゅうこの単語を口にします。
しかし、その意味はぜんぜん違います。中央線沿線のBARや居酒屋などのカウンター席で、隣り合った見ず知らずの人とお話をすることを、私はそう呼んでいます。
はい、仰せの通り。
単なる駄洒落、オヤヂギャグでございます。

知らない同士、利害関係が無く住む世界も違う方との語らい。
そこから得ることのできるものは非常に多く、まさに「カルチャー」と呼べる価値があると思います。ものごとを多角的・客観的に見ることで、目から鱗が落ちることも多々あります。
それよりも何よりも、まず楽しいんですよ、これが。
お酒が入ると普段無口な人もなめらかになりますしね。
だからこそ毎晩の中央線飲屋街歩きはやめられません。

いまの時代、カウンターカルチャーは本来の対向文化としては退潮しているように見えます。
かわりに勃興したのが「サブカルチャー」でしょうね。
メインに対してのサブ。
けれど、これは「対抗」するのではなくて、相互共存の考え方が色濃いことが、カウンターカルチャーとは違うように思います。
メイン文化の価値は尊重しながらも、マイナーな文化も存在を主張し、社会的な価値を高めたい。
そうした価値観の相違を認めある姿勢は、ある意味「中央線的」文化現象と言えます。
中野などは、サブカルチャーの中心地的な位置を占めつつあるようにも思いますよ。

いま、いわゆる「国立アニメの殿堂」建設の是非が与野党攻防の政争を絡めて熱く語られていますが、これなどはサブがメインに昇格する過程での論議です。
「サブはサブであってこそ輝く」と、この建設に否定的な漫画家さんもいます。
それもまた一つの考え。
しかし、サブが成熟してメインになる例は、古今東西あたりまえに見られました。

歌舞伎はいまでこそ盛装して見に行くメインカルチャーですが、もともとは「阿国歌舞伎」から派生した「野郎歌舞伎」などの、ヤンキーファンキーな路上パフォーマンスのようなもの。
夏目漱石などの小説も、いまでこそ青少年が「読むべきもの」とされますが、明治大正のころは「小説なんぞは低俗な連中の読むものだ」と否定的な考えが支配的でした。

さて、サブのままが良いのか、メインになるべきか。
すべては時代の流れという、神の手にゆだねるしか方法はないですね。





 中央線が好きだ
     <2009/7/4(土)>

 以前、JR東日本のポスターに、こんなメッセージがありました。
________________
中央線が好きだ。
自分たちの路線に向かってこんなこと言うのも、今さらちょっと恥ずかしいですが、
JR東日本はあえて言いたいと思います。「中央線が好きだ」と。
この沿線には、芸術からマンガまで新しい文化を発信し続ける街がある。
自分の趣味にこだわり、自分のリズムで暮らす街がある。どの街にも個性がある。主張がある。
しかもそれらはバラバラなように見えて、同じ空気が漂っている。
より自分らしく、より自由に生きようという、都会的な精神で結ばれている。
そんな「中央線らしさ」を私たちはやっぱり愛しているんだと思います。
あなたはどうですか、中央線は好きですか。今度いっしょに出掛けませんか。
________________
うーん、いかにも中央線の雰囲気を醸し出す、良い感じでしょ?





 それもそうだな
     <2009/7/6(月)>

 中央線沿線の飲み屋では、見ず知らずの人との議論がしょっちゅう勃発します。
議論と言っても大した内容ではありません。
少なくとも私は、飲んだ席で政治と宗教の話しはしないようにしています。
それは、意見が相違した場合に平行線で、決して妥協点がないから。妥協を期待できない話し合いなんて、何の意味も持たないと私は思うんですよ。「話し合いで解決」という空文がいかに虚しい結果を招いているか、厳しい内外の状況を見ればわかりますよね。

話しが平行線になる、あるいは暗礁に乗り上げたときに、恰好の助け船となるキーワードがあります。
「それもそうだな」です。
「そう言えばそうだな」でも構いませんよ、もちろん。

自分の意見を棄てて相手に合わせるのではありません。
自分の意見の他に、別の考え方も出来る、別の見方もあることを認める。
それが「それもそうだな」です。
このひとことで、どれだけ煮詰まった議論の解決の糸口が見いだせるか。
あるいは、自分の固定観念を解きほぐして、新しい発想を生み出せるか。

「それもそうだな」
なかなか魔法のキーワードじゃないかな、と私は思います。
少なくとも中央線人には、よく「効く」言葉ですよ。





 三寺文化
     <2009/7/13(月)>

 1970〜80年代、中央線文化が花開いた(そういうメジャーなものと無縁の雰囲気ですが)時代に注目のスポットといえば、「三寺」と呼ばれた高円寺、吉祥寺、国分寺でした。

それらの街に共通していたのが先述の「カウンターカルチャー」で、ディープなBARや居酒屋はもとより、ジャズ喫茶やロック喫茶、ライブ・ハウスに小劇場等が多く開設されました。
そこでは毎日毎晩同じように、夢と挫折、希望と悔恨が繰り返し繰り返し語られ、展開されていました。

また、お金のない若者ばかり住んでいたという、経済的事情からも、中古レコード店や古本屋、古着屋、骨董店などのセコハン文化系ショップが多くありました。単に「安いから」ではなく「安いからこそ格好いい」という価値観も共通していました。
それに「バック・トゥ・ザ・ネイチャー」、今で言うところのエコロジー系ショップ(自然食系レストラン、無農薬食材店等)も次から次へと開店しました。
ちなみに、タイムマシンがテーマのアメリカ映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のタイトルは、この「バック・トゥ・ザ・ネイチャー」という古いスローガンのモジリで、レトロっぽい雰囲気も狙ったネーミングなのです。
(わざと「イカしたナウなヤング」なんていうのと同じ)

さらに各種の平和運動やヒッピー文化からヨガ愛好家が増え、さらにスピリチュアルというか、はっきり言ってカルトチックな新宗教もこのあたりで多く芽生え発展しました。
恐ろしいので、実名は出しませんけれども・・・。

いまはかなり薄まりましたが、高円寺あたりには古着屋もまだ多く、一時期「高円寺は日本のインド」などと言われたアジアンカルチャーの匂い(いや「臭い」)も残っていますね。
実際にインド雑貨「むげん堂」の店先からは強烈に臭っています(笑)。

吉祥寺は女性誌によって「住みたい街ナンバーワン」に毎年選ばれるようなお洒落なタウンに出世?してしまいました。
ちなみに、その他の上位常連タウンは代官山やら自由が丘であり、そうした「東急東横線的イメージ」の一環として吉祥寺が語られているわけで、これは昔とはだいぶ変わったなぁと思わされます。

国分寺はもともとかなり田舎でしたが、丸井が出来、駅ビルが出来、だいぶ雰囲気がかわりました。
ただ、もう少し先の立川が大発展した煽りは受けていると思いますがね。

ちなみに。
高円寺と国分寺には、その名前の寺院がありますが、吉祥寺には「吉祥寺」というお寺はありません。
江戸時代、水道橋あたりにあった吉祥寺が火事で焼け(八百屋御七の火事)、寺院は駒込に移り、門前町の住民が武蔵野の新開地に移住させられたのです。
その門前町の住民が作った街が「吉祥寺」の街なのです。

吉祥寺に「吉祥寺」はありませんが、駅から北方向近くに4軒の寺院があります。
吉祥寺駅周辺の土地の多くは、これら寺院が地主であり、ビルも多くは借地権で建てられています。
このあたりは吉祥寺の項で詳しくお話ししましょう。





 中央線120年
     <2009/7/21(火)>

 今年(2009年)は中央線開業120年だそうです。
そういえば4月に、中野駅のそばを歩いておりましたら、いきなりドドドドンと太鼓の音。
何かと思ったら、駅で120年記念イベントをやっていたのです。そうなのか・・・と思いました。

ではここで中央線120年の歴史を振り返りましょう。JR東日本のサイトを参考にしています。

1889年(明治22年)
4月11日 甲武鉄道会社線新宿〜立川間が開業。
 当時は私鉄なのです。甲州街道ぞいの住民に嫌われ、青梅街道の住人にも避けられ、面倒くさい、エイヤッと直線定規で武蔵野の真ん中にラインを引いたのが中央線のまっすぐな理由、というのは有名ですね(ただしこの話し、証拠がない都市伝説という噂も・・・)。
8月11日 立川〜八王子間が開業。

1894年(明治27年)
10月9日 甲武鉄道・市街線、新宿〜牛込間が開通
 いよいよ山手線のワッカの中に進出です。けれどもまだ当時新宿は「いなか」。市内進出は悲願だったのでした。

1895年(明治28年)
4月3日 牛込〜飯田町間が開通

1904年(明治37年)
12月31日 飯田町〜御茶ノ水間開通

1906年(明治39年)
10月1日 鉄道国有法により国鉄中央線の一部になる。
 ちなみにこの頃の駅(新宿〜立川間)は
 新宿〜大久保〜柏木〜中野〜荻窪〜吉祥寺〜境〜国分寺〜立川

1912年(明治45年・大正元年)
1月31日 中央線電車に婦人専用車を連結
 なんと、「女性専用車両」はこの頃からなんです!

1917年(大正6年)
1月1日 柏木駅を東中野駅に改称。

1922年(大正11年)
7月15日 高円寺・阿佐ヶ谷・西荻窪駅開業。
  この間にいたる悲喜こもごも、さまざまなエピソードはまた別項にて。

さて、時代は一気に戦後に飛びます。

1951年(昭和26年)
4月14日 三鷹〜武蔵野競技場前間、営業を開始。

1959年(昭和34年)
10月31日 三鷹〜武蔵野競技場前間、営業を廃止。
 これは一体なんのこと?
 非常に興味深いので、また項目を改めて説明いたしましょう。

1964年(昭和39年)
9月22日 中央線中野〜荻窪間高架完成。
 これにともなう「杉並三駅問題」は今も尾を引いています。
 これまた改めて。

1966年(昭和41年)
3月16日 地下鉄東西線中野駅乗り入れ開始。
 ただ、快速←→緩行の乗り換えが不便なのですよね、中野駅。
 これについても、またまた改めて。
4月28日 緩行電車の荻窪延長及び快速電車の休日運転を開始。
 それまで緩行電車(カナリア色のいわゆる総武線)は中野までだったのです。
 休日運転。これがまぁ「杉並三駅問題」ですね。

1967年(昭和42年)
7月3日 特別快速、東京〜高尾間運転開始。

1968年(昭和43年)
8月15日 車両塗色の規定の一部を改正。中央線快速電車は朱色(オレンジ色)となる!

1969年(昭和44年)
4月8日 緩行電車、三鷹まで直通運転延長。

1987年(昭和62年)
4月1日 国鉄が分割・民営化されJR東日本発足。
 なにか昨日のことのように思います、オジサンにとっては(笑)。
 「E電」という言葉、覚えておいでですかぁ??

1995年(平成7年)
7月2日 東京駅中央線新高架ホーム使用開始。
 東京駅で中央線に乗り換えると、エレベーターが長い長い。

1999年(平成11年)
3月18日 三鷹〜立川間の連続立体交差化事業着工。
 このあたり「開かずの踏切」ばかりだったんですよね。解消されると良いですね。
 ダメなのは西武鉄道。いまだに踏切ばっかりですもの。朝夕は開かずの踏切ばかり。環八の井荻トンネルは本当に救いでした。

まずは、こんなところでしょうか。





 しめっぽいお話し
     <2009/7/23(木)>

 じめじめとした気候ですね。
梅雨明け宣言の後、数日は晴れていましたが、ここしばらく「再梅雨入り宣言」とでもいったような湿潤な毎日です。
夏になるとカラっと晴れて、午後に一天にわかにかき曇り、土砂降りの夕立、なんていうことも多いですよね。
なにしろ太田道灌の頃から「夕立の空より広き武蔵野の原」。
場所場所に集中して大雨が降ることもあります。

中央線沿線が通る武蔵野台地は「地震に強い」というお話しは何回かしました。それによって関東大震災以後、急速に中央線沿線の宅地化が進んだということも。
けれども、中央線沿線は「水害に弱い」という側面があります。

だいたいにおいて、地名に水っ気や低地を感じさせるものが多いんですよね。
阿佐ヶ「谷」とか荻「窪」とか。
いまは埋め立てや暗渠化が進んでおりますが、古い地図を見ますと本来の地形がありあり。
いまでも中野区や杉並区の洪水ハザードマップを見ますと、むかしの地形がわかります。
(なぜか武蔵野市はハザードマップを公開していないんですよ)

荻窪の北に「天沼(あまぬま)」という地名がありますが、これは弁天沼という、広さ約300坪(直径35m程度)の沼があったことによる地名とも言われます。
いま「天沼弁天池公園」というのがあって池がありますが、あれは新たに掘った池で、もともとの弁天沼じゃないんですよ。
もともとの弁天沼は非常に大きかったようです。天沼八幡神社の境内にあり、沼の中に島があってそこに弁財天を祭っていた事によるネーミング。ま、ありがち。ほとりには「池畔亭」という料亭まであった、ちょっとした名所だったそう。
で、神社が改築されるときに土地が西武鉄道に売却され、沼は埋め立てられてしまいました。

西武鉄道はここの「ゴルフ研修所」という名目の豪邸を建てました。
実は西武の堤義明オーナー(当時)が「関係ある」女性を(会社の費用で)住まわせていたとのもっぱらの噂。「西武の女帝」なんて週刊誌が呼んでいましたっけ。
まったく、そこでなんの研修をしていたんだか(苦笑)。
そのあと堤さんが西武から追放され、西武鉄道はこの地を杉並区に20億円で売却。2007年に公園になったわけです。
いまも公園内に和風の門がありますが、あれは女帝の屋敷時代の遺構。「いきなり感」が強い存在ですが、「そんな時代もあったねと」過去を忍ぶモニュメント。つわものどもが夢の跡。盛者必衰のことわりを表す…。
天沼と弁天池にまつわるエピソードざんした。

あ、そういえば「池と沼の違いは?」というようなdocomoのテレビCMがありましたね。
「カッパが居るか居ないかの違い」って。カッパは河童ですから住んでいるのは川でしょう。
池と沼の違い・・・。池袋と沼袋は大違い。
じゃなくて、
湖:中心部は、クロモやフサモなどの沈水植物が侵入できないくらいの深さがある。その深さは一般に5メートル以上とされる。夏に水温成層がある。
沼:湖より浅い。中心部まで沈水植物は生える。水深1〜5m程度。夏に水温成層がない。
池:湖や沼より小さい水塊。または人工的なもの。
だそうです。
池って基本的に人工物を言うんですね。じゃぁ元々のは「弁天沼」で、今のは「弁天池」。正しいわけですね。

この弁天沼から流れ出るのが桃園川です。かつては大雨のたびに氾濫していた困りものでしたが、いまは完全に暗渠化されていて、その上が「桃園川緑道」として整備され、散歩コースに最適となっています。

このあたりで一番の大河(?)は神田川でしょう。源は吉祥寺の井の頭池。海に近く井戸水が塩っぽかった江戸の街のために、河川を改修して江戸に水利をもたらした神田上水です。
これも年がら年中氾濫して杉並・中野・新宿各区に大被害をもたらしていました。けれども近年は改修工事が進み、神田川が原因の大きな水害はほとんど無いんじゃないでしょうか。
私が上京して神田川近くの学校に入ったころは、もうひどいドブ川でしたが、その後に下水施設の改善もあり、いまでは鮎までいるそうです。花見の時に覗いても、確かに綺麗ですね。

近年でこのあたりに大被害をもたらしたのは善福寺川です。
その名の通り西荻の善福寺池を源とする川ですが、忘れもしない2005年9月4日、局地的大豪雨のために氾濫。流域各地に大被害をもたらしました。浸水被害は3000戸を超えたとか。中央線の駅でもっとも甚大な被害を被ったのは阿佐ヶ谷駅で、南口のロータリーから改札まで完全に水浸し。いえ、水浸しなんていうものではありません。水没、という感じでした。ああいうとき、地下のお店で飲んでたりしたらどうなっちゃうんでしょうね?(何軒か地下スナックがつぶれたそうです…。)
あの日は中野におりましたが、朝から雨だったように記憶しています。夕方からまさに滝のような土砂降りになり雷もゴロゴロどっかん、夜になると1メートル先も見えないようなありさまでした。区役所の防災放送なども鳴り始め、
「これはただごとじゃないな」
と思いました。けれどもまさか阿佐ヶ谷駅が水没するなんて考えもしませんでした。

西荻窪の駅も浸水しました。けれど西荻は民家の浸水被害が大きかったですね。善福寺池からの流れは低地を流れています(当たり前かな)。いかにも周囲から水が流れ込んできそうな地形で、東京女子大前の道を車で走ると、善福寺川のところでジェットコースターのように下がって上がっています。このあたりから下流域にかけて大被害がありました。

いわゆる「都市型水害」というやつですね。
中野・杉並の土地被覆率は80%程度にも及ぶとか。土にしみこめない水がどんどん河川に流れ込み、許容量をオーバーして氾濫してしまう。これからもヒートアイランド現象による都市型豪雨は想定されます。中央線人としては、常にそのことは意識しておくことが必要ですね。

余談・・・かな。
実は水害の日、昼間は杉並にいたのですが、杉並区の防災放送がうるさいほどガンガン流れていました。
ただしこれは訓練放送。なぁ〜んだ。
ところが肝心の、水害発生時には放送はダンマリだったそうです。中野区ではちゃんと放送していましたが。杉並区役所って阿佐ヶ谷じゃないですか。お膝元が水没しているのに、なんだかなぁ〜〜。今は改善されていると考えたいです。





 中央線が神奈川県?
     <2009/7/28(火)>

 中央線が1889(明治22)年に開通した「甲武鉄道」が前身であるのは、以前述べました。
このときの甲武鉄道は、新宿〜立川間の路線で、駅は
 新宿〜中野〜境(現・武蔵境)〜国分寺〜立川
でした。
この中で、境と国分寺、立川は、なんと当時は「神奈川県」だったのです!

「何を言ってるの?」と思われるかも知れませんが、多摩地区西部が神奈川県から東京府に移管されたのは、1893(明治26)年のことなのです。
ですから開業当時は、神奈川県北多摩郡武蔵野村、国分寺村、立川村だったわけ。
ちなみに中野もまだ東京市内ではなく、東京府東多摩郡中野村でした。

西・北・南多摩、いわゆる「三多摩」地区を神奈川県から東京府に編入した理由は、なんといっても水問題。玉川上水の水利権と奥多摩地域の水源確保のためとされています。
このほか、この当時、自由民権運動が盛んだった多摩地域と、神奈川県南部とを分断するといった政治上の事情もあったのではないかとされています。
多摩地域は養蚕業が盛んで、輸出のために開開港地横浜と関係が深く、かなり革新的な思想風土であったようです。

中野村は東多摩郡でしたが、1896(明治29)年に南豊島郡と東多摩郡が合併し豊多摩郡となります。
いかにも田舎だな〜と感じさせる地名ですが、なんと新宿(内藤新宿)も渋谷もこの豊多摩郡でした。
「東京市」の範囲は、まだまだ小さかったことがよく判りますね。
同時に武蔵野地区がいかに田舎の田園、農村であったかも判ると思います。
中野あたりでも1969年の東京オリンピックあたりまでは、かなり田圃の広がる農村だったようです。
まして明治は推して知るべし。

中野村が中野町となったのは1897(明治30)年。渋谷村が町になったのが12年後の1909(明治42)年ですから、この当時は中野のほうが渋谷よりも先進地であった………のかどうかは存じません。
ただ、交通の要衝である内藤新宿だけは急速に発展したようで、1920(大正9)年にはいち早く東京市に編入され、四谷区の一部となっています。

何度も申し上げていますが、中央線沿線が劇的に変貌したのは、関東大震災の影響により人口が一気に増加してからのこと。
そして遂に1932(昭和7)年、豊多摩郡に残った13町が東京市に編入され、豊多摩郡はここに消滅しました。
こうして生まれたのが
 中野区(中野町、野方町)
 杉並区(杉並町、和田堀町、井荻町、高井戸町)
 渋谷区(渋谷町、千駄ヶ谷町、代々幡町)
 淀橋区(淀橋町、大久保町、戸塚町、落合町)
なのです。
なお、四谷区の内藤新宿町が淀橋区と合体して新宿区になるのは、戦後の1947(昭和22)年のことです。

新宿、中野と杉並が「多摩」であったことを考えると、「中央線」は事実として「多摩線」であったことになります。中央線が「三多摩」地区に入っても、あまり違和感がなく、全体的な一体感があるのは、そうした事情によるのかもしれませんね。

この「三多摩」という言い方も、やがては消えていくことでしょう。
だって現時点で正式に存在しているのは西多摩郡だけです。北多摩・南多摩は1970(昭和45)年の市制施行等によって消滅しています。ただ昔からの慣行で、いまだに(たとえば選挙区名称などで)この呼称は残っていますけれども。三多摩地区を「都下」と呼んで、「都内」(区部)と区別していたこともありましたが、今はそうした名称も使われなくなったのではないでしょうか。なんとなく差別っぽいイメージですからね。

いま、三多摩を表す表現として「多摩・武蔵野地域」というものがあります。新聞の版なんかでもそうですね。このとき「武蔵野」とされるのは、武蔵野と三鷹の2市。むかしのイメージでいけば、やがては東京都編入、武蔵野区と三鷹区になるような勢いです。
この武蔵野地域2市は、さまざまな行政サービスが先進的で充実していると言われ、住民に人気です。
これはかつて、東京都の行政を改める際に、23区の区長全員が合意しなければ何事も進まないという時代があり、とりあえず試験的に武蔵野市・三鷹市で実施して様子を見る、といった取り組みがなされたことによるとされています。
中央線沿線はまさに先進的な位置にあったと言えるでしょう。

あ、そうそう。
「中央本線」ということでいうと、相模湖駅と藤野駅はいまも神奈川県です。忘れてました。





 エデンの園
     <2009/7/30(木)>

 エデンの園(Garden of Eden)は、旧約聖書に登場する地上の楽園、パラダイスです。
むかし、北だかどこだか近隣の国を「地上の楽園」と宣伝する新聞があったそうで、それを信じて行った皆さんは、いま大変なご苦労をされているとか。
旧約聖書において、エデンは北ではなく「東のはて」にあると記述されています。

中世ヨーロッパで用いられた世界全図に「TOマップ」と呼ばれる形式のものがあります。
まず「O」と円周を描いて海洋を表し、その円の中に「T」字型を描きます。上半分がアジア、左下がヨーロッパ、右下がアフリカを表し、円の中心が聖地エルサレムでした。
紀元前のギリシャにおいて、すでに地球は球体であると考えられていたにもかかわらず、キリスト教原理主義が席巻した中世ヨーロッパでは、原始的な世界円盤説に逆戻り。こうしたTOマップ的世界観が信じられたのです。こうした歪んだ世界観が是正されたのは、皮肉なことにイスラムの高度な科学知識がヨーロッパにもたらされたことによるもので、13世紀頃、十字軍遠征の成果?と言えるでしょうか。それにより科学的海図が作成されるようになり、世界は大航海時代を迎えることになります。

TOマップにおいてエデンは東(図で言うと最上部)の果てに燦然と輝いています。旧約聖書の記述通りですね。ここってどう考えても位置的に日本ですよ〜。エデンの園、地上の楽園、実は日本のことだったのです(笑)。ウソだとお思いでしたら、
「パラダイスとは日本のことですか?」
とキリストさんに聞いて下さい。
たぶん「イエス」とお答えになります(笑)。
ちなみに導入説明、方向づけることを「オリエンテーション」と呼びますが、これは、東方=オリエント方向を向く、すなわち正しい方向に進むことから来ています。まさに「光は東方より」ですね。

さて。
中央線もエデンだったことをご存じですか?
ある年代以上の方なら、以上の前ふりでお気づきになったはず。
そうです。あの「E電」のことです。
あ、お若い方。これは「エデン」と読むのではありません。
「イーデン」と読みます。

1987(昭和62)年に国鉄(日本国有鉄道)が分割民営化されました。
今にして思えば、よくもまあそんな荒療治が出来たものです。小学生の頃に覚えた「三公社五現業」は、いまや国有林野事業だけの「一現業」になってしまいました。

さて、首都圏や京阪神の近郊区間を走る通勤電車、つまりオレンジ色の中央線や黄緑色の山手線などの四角い103系電車のことを総称して、国鉄時代は「国電」と呼んでいました。同じ国鉄の電車でも、もっと遠くに行く中長距離列車とは違う近郊区間電車だけが「国電」と呼ばれたのです。
その昔、都市近郊だけが電車で、それより先は蒸気機関車だった時代の名残ですね。戦前は「省電」。鉄道省の電車のことで、市電(都電)と区別する意味合いもありました。
中央線も中野までが電車区間で、それより先は蒸気機関車という時代もあったのですよ。

東京〜横浜間を走っている電車の場合ですと、水色の京浜東北線が「国電」、グリーンとオレンジの中距離列車を「湘南電車」と呼んで区別していたと思います(違うかな?)。
私の出身地、京都で言うと、東海道線を水色の国電(普通)と湘南色の電車(快速)が走っていました。
あ、そのほかに阪急の特急に対抗した「新快速」(白地にブルーのライン)もあったっけ。

国鉄がなくなってJRになったわけですが、それに伴って、この国電を何と呼ぶべきかが問題になりました。分割民営化直後、JR東日本が国電の新たな名称を公募し、なんと5万通の応募があったとか。
第1位は「民電」でしたが、これでは私鉄(民鉄)と紛らわしいと言うことでボツ。
第2位は「首都電」、第3位は「東鉄」・・・。
それらの中から、選考委員会は「首都電」、9位の「JR電」、20位の「E電」の3つに絞り込みました。
このうち、首都電は「スト電」に似ているからという理由でダメ。
で、結局、E電に決定したわけです。

しかし20位が一気に逆転して採用されるのは、どうみても不自然で、最初っから決まっていた出来レースなんじゃないか、という声が当初からありました。
それに発表記者会見の時の選考委員、作曲家の小林亜星さんの態度が、なんとなく押しつけがましく、彼が独裁的に決めた印象を与えてしまったようにも思います。
それでなくとも、電電公社が「NTT」、専売公社が「JT」となり、国鉄も「JR」になって、横文字アレルギーが少し出かかったところにもってきて、またもや「E電」と言われては、「もう勘弁してよ」という雰囲気が国民に生まれていた、ということもあるように思います。

小林亜星さんによれば、
「E電は、"いい電車" 。JR東日本(JR-East)のEでもある。そのほか、Electric、Enjoy、Energyなど、Eには様々な意味が込められている」
ということでした。
さっそく駅の看板やアナウンスを変更。テレビラジオの交通情報などでも「E電各線は平常通り運行」などと用い始めました。

ところが。
この日英混合のヘンテコな名称の寿命は……。そうですね、半年もあったでしょうか。
本当に驚くほどアッという間に消滅してしまいました。
小林亜星さんはのちに「JRが普及の努力を怠ったからだ」と非常にお怒りだったようですが、どうなんでしょう。
当時、私もE電なんて使う気にもなれませんでした。だって、あまりにも軽薄っぽくないですか。時代はまさにバブル景気。いかにも・・・という感じで、ごく普通の人たちは、この軽佻浮薄な名称を、正直言って「嫌った」のだと思いますね、私は。

それに、もともと「国電」というのがどの電車を指すのか、曖昧でした。
それまで中長距離列車は1両3ドアで、ボックス席が並んでいるタイプでした。国電は4ドアのロングベンチシート。いかにも別物でした。しかし民営化の頃から中長距離電車にも4ドアロングシートが現れ、区別が曖昧になってきたという状況もあります。
わざわざ「国電」とか「E電」などと総称する必要が無くなり、単に「山手線」とか「中央線」とか言えば良いんじゃないか、という時代的な変化が、E電消滅の要因になったとも思います。
私が駅の案内表示において「E電」を見た最後は、たしか1999年頃の渋谷駅の構内案内表示でした。当時としても珍しく、「歴史遺産」を見たような印象だったのを覚えています。
そのあとも、車掌さんが(たぶん冗談で)「E電山手線お乗り換えです」みたいなアナウンスをしていたのを聞いたことがあります。

ところがどっこい。
中央線ではまだ「E電」の名称が生きているんですって。
JR東日本内部では、東京〜高尾間を「E電線」、高尾から西を「列車線」あるいは「中央本線」と呼び分けられているそうです。山梨県内では一般利用客の中にも、東京駅まで行くオレンジ色の中央線快速をE電と呼ぶ人がいるとか。駅の柱に掛けられている縦長の路線図(所要時間表)にもE電と表記されているらしいです。
大月あたりですと、確かに中距離列車とE電の区別して呼ぶ必要があるかも知れませんね。

そうそう。みなさん中央線のオレンジ色の快速電車と、カナリア色の緩行(各駅停車)電車をどう呼び分けていますか?
「快速:各駅」でしょうか。「中央線:総武線」でしょうか。両方使いますよね。

ちなみに、JR西日本では、国電を「アーバンネットワーク」と呼んで、現在も使用されておりますが、一般人の口にはあまりのぼっていないように思います。





 今日の途中下車は?
     <2009/9/1(火)>

 台風が去ると共に、9月になっちゃいました。
ほんと、歳を取ると1年の過ぎるのが早いこと早いこと。ことしは8月の末に総選挙があるという、過去に例のない夏でしたね。選挙結果は、いやはやなんとも、「つわものどもが夢の跡」ですか。これから日本はどうなっちゃうんだろうなぁ…。

総選挙と日程が重なった高円寺の阿波踊りも無事終了。でも2日目(30日)は雨に祟られてしまいました。こういうものはお天気に左右されるのは宿命。さて今年の来場者数はどうだったんでしょうか。気になるところです。

私は晴れて暑かった初日の29日(土)に行きました。
もともと私、「賑やか好きの人混み嫌い」なもので、そういうイベント見物は苦手なのですが、わけあって行って参りました。いやもう、身動きが出来ないほどのヒトひと人…。各飲食店は店頭に臨時屋台を設け、盛んに売り立てます。まさに高円寺全体が興奮のルツボの中にあった、といって過言ではなかったですねぇ。駅に戻るにも大回りしないとまともに歩けません。大変は大変なので、地元の方はご迷惑とは思いますが、年に2日間、こうして地元が全国から注目されるのは、ちょっと誇らしい気分になるのでは?

わけあって、というのは、私と密接な関係にあるBARが、今年の5月に高円寺でオープンしたから。その「阿波踊り初体験」の様子を見に行ったわけです。お店は、阿波踊りのメイン会場である駅南口ではなく北口ですが、すぐそばに有名な焼鳥屋さんがあり、そちらの盛り上がりのエネルギーがBARにまで及んでおりました。けれどもそこはオーセンティックなBAR。落ち着いたシャンソンが流れる、照明暗めの店内、外の喧噪とは別天地で、静かにグラスを傾けていますと、なんとなく(普段は微塵も感じない)「大人の嗜み」なんていう気分にさせてくれます。滅茶苦茶に狭い店ですが、狭さを逆手にとって「落ち着き感」をうまく演出している、高円寺にしてはなかなか素敵な「大人の店」だと客観的に思います。

私が中央線で飲む場所というと、中野・高円寺・阿佐ヶ谷です。それが三者三様の違った趣をもっていることが、何と言っても魅力。そのときの気分で降りる駅を決めます(最近ほとんど中野ですが)。
 降りる駅…。そう、中央線で飲んでいる人は「途中下車族」が多いですね。会社が都心にあって自宅は三鷹以西、飲むなら中野や阿佐ヶ谷、なんていうパターン。定期券あればこその「ぶらり途中下車の旅」。
 わかります。会社のそばや自宅の近所って、飲むには何か落ち着かないんですよ。利害関係のない町で飲んだ方が、「本当の自分」をさらけ出しやすい、ってありますよね。会社や自宅の近所って、誰が見てるかわからないじゃないですか。
「あ、取引先○○社の部長さんだ。偉そうにして、なんだ、あんな安酒場で飲んでいるのか」
「あーらいやだ、△△さんのご主人、真っ赤になって飲んだくれてますわ。下品ざーます」
なんて、イヤですよね(苦笑)。

中野は、都会と郊外のクラッシュゾーン(交錯地域)だけあって、千差万別の人種にあふれているところが魅力。また、早い時間から開店しているお店も多いので、変な時刻から飲みたいときに便利なんです。工場地帯なら早開き(朝からとか)も多いですが、中央線沿線では少数派。中野は、警察とJRという二大「夜勤明け族」がいる街なので、早開きのお店があるんです。以前、「昼キャバ」なんていうのもありましたが、これははやく消えたようですナ。
 中野の酒飲みは話し好きの方が多く、私はそういうのが大好きなので、どうしても中野に足が向きがち。利害関係のない異業種の人との語り合いは、まさに「カウンターカルチャー」で、いつも勉強になっています。しかも、人間関係に後腐れがないというか、下町のように自宅にまで連れて行くとか、そういう関係にはならない。「じゃぁ、また」でお仕舞い。その、つかずはなれずの距離感が何とも心地良いんです。

高円寺は若者文化の街。またミュージシャンの多い街でもありますから、そういった雰囲気が苦手な方には、すこしどうかな?と思われがち。いえいえ、そんなことは決してありません。確かに音楽(主にロック)系のライブをやっているお店なんか多いですが、古本酒場とか、一種独特なお店もあり、老若男女が楽しめるお店が多いですね。ただし開店が遅いお店も多いのが特徴。営業開始、夜9時からとか。ディープに語り合い、でも寝ぼけ眼で、半分以上は聞いていない、そんな感じ。
 前述のBARもそうですが、狭小店舗が多いのも特徴。高円寺北口は非常にゴミゴミとしていますが、そこに密集するように小さな店が軒を連ねています。そういうお店は一見(いちげん)では入りにくいものですが、なぁ〜に、入っても殺されはしません。とりあえず勇気を奮って入り、正直に「初めてですが良いですか?」と遠慮とたしなみを忘れなければ、ほとんどのお店はOKです。お気に入りのお店が見つかれば、それはもう天国。

阿佐ヶ谷は大人の街。高円寺のロックに対して、ジャズBARが多いですね。阿佐ヶ谷はジャズで町おこしをはかっていまして、1995年から「阿佐谷ジャズストリート」というイベントを毎年開催。今年は15周年ということで、例年にも増して盛り上がっております。阿佐ヶ谷育ちのピアニスト山下洋輔さん、ジャズシンガーのマーサ三宅さん(以前、大橋巨泉さんの奥様でした)も出演。開催は2009年10月23日(金)、24日(土)。
 阿佐ヶ谷は駅北西の「スターロード」と南東側にのびる「一番街」の、二つの飲屋街を持つ街です。いずれも各店が独自のこだわりを持った小さな店が多いのが特徴。各店経営者の仲が良く、「一番街おとなの縁日」や「スターロードフェスティバル」などといった、飲屋街あげてのイベントが多いことも特筆できます。中野なんかですと、こういったまとまり感に欠ける傾向がありますねぇ。
 それから最近、阿佐ヶ谷では「若い女将ひとりの小料理屋」が増殖中。銀行や商社のOLだった方がお金を貯め、また飲食の修行をし、阿佐ヶ谷で小さなお店をオープン、というパターンが増えています。よく刑事ドラマで、美人女将がやっている「いきつけの小料理屋」が登場しますが、まさにあんな感じ。そういう落ち着いた雰囲気は阿佐ヶ谷人の大好物?ですから、すぐに常連さんがついて、どのお店も商売繁盛のようですから何よりです。

どの駅・どの業態・どの店にしましても、老若男女を問わず「ひとりで文庫本を片手に飲んでいる人」が多いのが中央線の特徴かも。そういうのを嫌うお店が多いのが、アルコール系料飲業の世界ですけれども、中央線にはそれを許容する雰囲気があるのです。活字を愛する「文系」の人が多いですからね。それは中野で中央線の仲間入りをする、地下鉄東西線の影響があるのかもしれません。東西線の沿線には、新聞社や出版社、印刷・製本会社など「活字」(今は活字は使わないですね)文化に生きている方々が多い。また文化系の大学が多く、学生さんや先生も多い。いきおい、文庫本を肴に?飲む人たちが出現し、それを認め合う文化風土が育まれているのです。これって、なかなか貴重で魅力的だと思います。

でも私は文庫本より、人との語らいが大好物。さぁ〜て。今日はどの駅で途中下車しようかなぁ。。。





 大人の遊び場(その1)
     <2009/9/11(金)>

 中央線沿線は、大の大人が遊べる場所がたくさんあります。「オトナの遊び場」なんていうと、新宿・歌舞伎町的なイメージになりがちですが(まぁそういうお店もあるにはあります。その話はまた、おいおいと…)、そういうのではなく、日曜日に時間をつぶすことが出来る場所が多いのです。私もしょっちゅう楽しませていただいております。

この沿線の、夜の飲屋街の充実は言うまでもありませんが、今日は昼間のお話し。喫茶店が健在なのも中央線の特徴なのです。むかしはどの町にも喫茶店がたくさんあり、学生やサラリーマン、ご隠居さんたちがくつろいでおりました。しかしバブル景気の時代に東京の地価が高騰し、客単価・時間単価の低い喫茶店は、とても営業できなくなってしまったようで、どんどん消えていきました。中央線沿線の喫茶店は、家賃の発生しない自家物件が多いことと、もともと「趣味」で経営しているという感じのお店が多かったためか、個人経営の喫茶店が比較的多く残りました。

中野には「クラシック」という名前の、その名の通り「超クラシック」な外観内装の有名な喫茶店がありました。1930(昭和5)年に創業した当時そのまま?という雰囲気の建物。入口の戸が歪んで開けづらく、床はギシギシときしみました。水のコップが「ワンカップ大関の空き瓶」で、珈琲のミルクがマヨネーズのキャップに入っているという伝説の店。
 そのレトロな雰囲気を好む方も多く、五木寛之さんが紹介したりで人気があり、客足は途絶えませんでしたが、後継者が居なかったとかで、2005(平成17)年、惜しまれながら閉店してしまいました。が、クラシックの元従業員の方が、備品やレコード等をそのまま利用して、高円寺で名曲喫茶を2007年に開業しています。食べ物の持ち込みが自由というシステムも、クラシックそのまま。お店の名前は「ルネッサンス」。場所は南口パル商店街を進み、桃園川緑道の先を左に入った地下にあります。

この他にも、中央線沿線には、今や絶滅危惧種である名曲喫茶の名店がたくさん生き残っています。高円寺には「ネルケン」という老舗、阿佐ヶ谷の「ヴィオロン」、荻窪の「ミニヨン」、吉祥寺の「バロック」などなど……。
 どのお店も音源はCDではなくレコードで、竹針を使うお店もあり、そのプチプチ聞こえるノイズのアナログ感が逆に心地良いんですよ。なにか人の営みのぬくもりを感じる、とでも言うような。デジタル音源の澄み切った、しかしギスギスした感じが無いのです。

私が学生の頃、名曲喫茶に行くことがひとつのステータスシンボルというか、大人の世界への入口というか、カッコつけるのに不可欠、というイメージでした。母校のそばにも有名な名曲喫茶が何軒かあり、私もときどき、恐る恐る、覗きはしました。しかし、ひとりで沈黙の時間を過ごし、珈琲を片手に静かにクラシックに耳を傾ける…てなことは、軽薄学生であった私には、非常に苦痛な時間でした、正直なところ。
 が、大人になってからは、そういう時間がとても好きになりました。大勢でワイワイするのも大好きですが、珈琲の、深いブラウンの淵を覗きこみ、(無理にでも)微笑みながら過ごす時間。無言がもたらす思索のひととき。耳を打つクラシックの調べ。なかなか良いものです。私もこの歳になって、ようやく大人の仲間入りが出来たようです。

大人の遊び場はこのほかいろいろありますが、また後日。





 大人の遊び場(2)
     <2009/9/12(土)>

 昨日アップした記事、訪問者数がいつになく多かったのですが、これはタイトルを何か勘違いされた方が多かったからなのでしょうか?(笑)

大人の遊び場で欠かせないのが、古本屋さん。日曜日にふらっと古本屋巡りする楽しみは応えられません。何かを真剣に探す、というより、一期一会の出会いを求めて、衝動買いをしたりするのが楽しみなのです。

活字中毒患者の多い中央線沿線には、数多くの古本屋さんが存在しています。当ブログの範疇ではありませんが、神田の古書店も駅はお茶の水で中央線ですし、早稲田古書店街も中野から中央線の仲間入りをするメトロ東西線ですね。その両者には敵いませんが、中野〜三鷹間にも古本屋さんがたくさんあります。大学の教科書となる学術書中心の神田や早稲田と比べて、個人的嗜好の趣味の本、演劇や音楽、サブカルチャー系の本を多く扱うお店が多いことが特徴でしょう。

いまは古書探しはネットが主流。私も仕事では「日本の古本屋」サイトで検索して、全国から最安値の本を取り寄せています。神田で一日、足を棒にしても見つけられない本を、ネットならわずか数秒で発見することが可能、しかも価格の比較が出来るのは、ほんと便利便利。そうしたことから実店舗を閉める古本屋さんも多い中、中央線沿線の古本屋さんは、まだまだ頑張って店舗営業してくれています。

中野で古本屋さんの代表と言えば、いまや「まんだらけ」なのかもしれませんが、今回のテーマとはちょっとズレるかも。いえ、漫画だって立派な文化と私は考えていますが、「まんだらけ」はまた別の機会に語りましょう。内容がヘビー過ぎます(笑)。中野ブロードウエイ内の古書店としては、この他に現代文学の「うつつ」、海外文学の「ワタナベ」などがあります。

高円寺から西荻までが杉並区ですが、実は杉並区は全国2位の「古書の町」(1位は神田のある千代田区、3位は早稲田のある新宿区)なのです。高円寺駅北口の「オリンピック」の裏手にあるのが「東京西部古書会館」。ここは「東京古書籍商業協同組合中央線支部」といって、古書店同士の流通の場ですから、ふだんは一般人には無縁の場所。古書店は、こうした市場で、店主独自の見識により仕入れを決めますので、在庫は非常に傾向が偏り、それが古書店巡りの魅力、楽しさなのです。
 東京西部古書会館では、月に3回程度の土日に古書即売展が開催され、一般人も購入することが可能です。熱心なファンも多く、いつも開場前は行列が出来る賑わい。今日・明日(2009/9/12~13)は「大均一市」で、本日12日は200円均一、13日は100円均一。2万冊が出るそうです。楽しみ楽しみ♪

高円寺には駅近くの、社会科学書に強い「都丸書店」、珍しい沖縄の本が多い「球陽書房」などなど、北口南口に15〜16軒くらいもあると思います。また、「コクテイル」のような古本酒場、古本カフェがあるのも、いかにも高円寺っぽいなぁ〜。古本酒場は、一度その快適さ、居心地の良さを知ってしまうと、底なし沼のような魅力(魔力?)があります。活字好きの方には危険な場かも。

阿佐ヶ谷は趣味性の高い品揃えのお店が多いように思います。駅の南北、ケヤキ並木がアカデミックな雰囲気を醸し出す中杉通り沿いに、そうですね、10軒くらいあるでしょうか。私は以前、山歩きを趣味にしていましたが、山岳書のお店として有名なのが「穂高書房」。店内の在庫は山積みで、その高さたるや、まるで穂高連峰のような標高。その数に圧倒されて「遭難」しそう(笑)。歴史書や美術書に強い「千章堂書店」も私のお気に入りです。

荻窪も駅周辺に10軒くらいでしょう。南口すぐ、中央線の車窓からも見える「岩森書店」は各ジャンル満遍なくおさえて在庫も豊富。歴史や美術書も得意です。私はここで、長年探していた本を見つけたことがあります。同じく線路沿いの「ささま書店」は広いです。そして店先の100円均一コーナーが充実しているのが何よりウレシイ。こういう均一コーナーで面白い本と出会うと、それから3日くらいはハッピーな気分で過ごせます。

西荻窪は、アンティークの町ですから古本も充実。かれこれ15〜16軒はありますね。かわいい本が多い「にわとり文庫」、絶版になった文庫本を多く扱う「盛林堂書房」、映画や演劇・音楽書の「音羽館」、旅にかかわる本ばかりの「のまど」(新本がメイン)、女性向けの本専門の「とんぼ書林」、サブカルチャー一色の「夢幻書房」などなど、西荻らしい、一癖も二癖もありそうな「イイ感じ」のお店が多いのが特徴です。
 それから、西荻には「昼本市」というのがありまして、飲屋街である西荻駅南口すぐの「柳小路通り飲食街」を、オジサン達以外にもアピールする目的で、月に一度、第3日曜日に開催されています。「昼市」ということで本以外の飲食店がメインですが、いえいえどうして、本もたくさん出品されています。

いかにも「飲屋街」といった雰囲気の、ちょっと妖しげな細い路地が、そのときは非常に賑わいます。こういう取り組み、すごく意義のあることで、変なハコモノを作ったり、無理無理に官製イベントを開催するのではなく、住民本位で自分たちの出来ることから始める町おこし。良いんじゃないですかね。ちなみに柳小路には、本格タイ料理が安く食べられる「ハンサム食堂」というお店があります。タイの露店の雰囲気そのまま、お酒に合う食べ物豊富でオススメです。

さて、ではこれより古本探しに高円寺へ行って参ります。お陰様で、この週末も楽しく過ごせそうです。良い出会いがあると良いなぁ。





 B級グルメ
     <2009/9/29(火)>

 今年(2009年)の秋の連休は如何お過ごしになったでしょうか?
「シルバーウイーク」と呼ばれ、行楽地ではたくさんの賑わいがあったようです。高速道路も大渋滞。それにしても、このシルバーという言い方、どうなんでしょう。春のゴールデンに対比させた表現なのでしょうが、何かゴールデンよりも格下感がありますよね。今年の秋の連休は、ゴールデン以上の充実度だったのではないでしょうか。それにシルバーというと、どうしても高齢者イメージがあるので、ちょっと使いにくい、という声も聞かれました。「プラチナウイーク」と呼ぶべきだ、と。

でも考えてみますと、連休中に「敬老の日」があったり、お彼岸が絡んだりして、なんとなくシルバーっぽい雰囲気がありますから、やはりこれで良いのかも知れません。ここまで派手な連休は6年後とのこと。待ち遠しいですね。私の連休はと言えば、世間様に顔向けできない10連休でして、ただいま社会復帰のためのリハビリ中です。どうも愛機PCも調子が出ないようでして、先ほどこれと同様の文章を数千字打ち込んだところでフリーズし、パァになってしまい、しばし茫然自失、泣きの涙でした。

消える前に打ち込んだ文章は、JR西日本の福知山線事故調査委員会がらみの不祥事に対する憤りと、わが中央線、東中野駅で1988(昭和63)年に起きた列車追突事故、それが契機となって首都圏全線に導入された「ATS-P」の話題でした。 福知山線の事故はATS-P(いわゆる新型ATS)があれば防げたのではないか、というところが今、問題になっているわけです。ですがまぁ、亡くなった方もおいでの事故の話しも何なので、文章が消えてしまったのは何かの「お告げ」なのかもしれませんから、話を変えましょうかねぇ。

精進落としには食べ物の話題が良いでしょうか。飲食店紹介は原則的に拙ブログの埒外ですが、たまには良いかも知れませんね。そこで、今何かと話題の「B級グルメ」にスポットを当ててみたいと思います。もちろん、中央線沿線のB級グルメです。

B級グルメという言葉は、1985(昭和60)年に、田沢竜二さんという方が書かれた『B級グルメの逆襲』という本のタイトルが濫觴、と言われています。「逆襲」とあるように、当時(バブル経済期)「高価であること=良いこと」というような社会の共通認識が築かれていたことに対する、アンチテーゼとして示されたものです。グルメというものは、「よそいき」の非日常にあるのではなく、普通の庶民が気軽に食べることの出来る価格で、それでも美味しいものこそが本当なのだ、という考え方。言ってみれば、柳宗悦が大正末年に提唱した「民芸運動」のようなものですね。「下手味(げてみ)」の良さ、とでも言いましょうか。

ただ、「B級」にしても「グルメ」にしても、人によって評価基準がまちまちであるため、単に「質より量」のように捉えられることもありますし、「廉価な郷土料理」といった理解もあります。ま、B級グルメにヘンテコな定義を求めることは野暮だと思いますので、千差万別の解釈があって良いのだ、と私は思います。ちなみに、この連休中に大変な人出で話題になった「B−1グランプリ」(2009年は秋田県横手市で開催) はキャッチコピーで「B級ご当地グルメ」と、わざわざ「ご当地」と断っていますから、「廉価な郷土料理」で良いのでしょう。

さて中央線。
B級グルメは何でしょうかね。中野北口に、その名も「中野B級酒場」というのがあって、B−1グランプリで名を売った富士宮焼きそばとか、厚木のシロコロホルモン、行田のゼリーフライ等などを食べさせてくれます。安いし美味いしでオススメの店ですが、「中野のB級グルメ」の品ではありませんね。中央線沿線、特に若者が多く住む中野・高円寺・阿佐ヶ谷には、「安くて量のある」食べ物を提供してくださるお店が、星の数ほどにあります。それぞれに工夫をこらした独自のメニューがあり、それらの中から一つ選ぶというのは至難の業です。それに意味のあることではないでしょう。そうやって考えてみると、やはりB級グルメの定義を考えないと話しになりません。

B級グルメの定義。
まずは安いことでしょう。ここ30年、食べ物の価格ってあんまり上がっていないように思います。私の学生時代、牛丼が400円で今より高かったですし、学生街の定食屋さんのメニューは400〜600円くらいで、今とほとんど同じ。いや、今は西友の290円弁当なんていうのもありますからね。本当に外食は物価が安定していると思います。むやみに高騰しているのはラーメンでして、むかし800円のラーメンなんて笑い話でした。でも今は普通にありますよね、800円のラーメン。さて、B級というからには、決して1000円を超えてはならない、というルールがあってしかるべし、と思います。
 そして美味しいこと。美味しいというのは人によって千差万別ですが、概ね「60%以上の人が『また食べたい』と思う味」ということで良いのではないでしょうか。
 それから大切なこととしては、その食品に何らかの「物語」というか、「故事来歴」と申しますか、何か歴史があることも必要に思います。そうでなければ中野・高円寺の飲食店は、軒並みB級グルメの名店になってしまいますからね。
(ところで「B−1グランプリ」には、出場すること自体が目的となって、「昨年考案されました」なんていう、「物語」のない品も参加しているようですが、あれはどうなんでしょうかねぇ…)

…と、定義は出来たものの、それでも絞れないことに気がつきました。該当するお店、メニュー有りすぎ。以前紹介した「タブチ」などを筆頭にして、阿佐ヶ谷の「クロンボ」、「富士ランチ」、高円寺の「MASH」などの洋食屋さん。それにご当地ラーメンの走りである荻窪ラーメンだって有力候補です。東中野「大盛軒」の鉄板麺もかなり有名。マスコミに登場する頻度から言えば、吉祥寺「いせや」の焼き鳥ははずせないでしょう。あ、マスコミ頻度と言えば、中野「青葉」のラーメンだって負けてはいませんね。

ただ、焼き鳥もラーメンも洋食ランチも、何も中央線に限った話しではありません。他の路線沿線でも同じように安くて美味しいお店はたくさんあります。中央線沿線各駅に共通する、特徴的なメニューは何か。そう考え、ふと頭をよぎったものがあります。
それは「つけ麺」です。

つけ麺(名称は店によりまちまち)は、中央線が発祥の地とされています。荻窪南口の「丸長」(昭和23年創業)という中華そば店で、賄い食(麺の残りを茶碗に入れたスープに漬けた)として食べられていたものをヒントに生まれた、とされます。丸長は5名の方の共同経営という形でしたが、そこから独立した坂口正安さんと、その又従兄弟にあたる山岸一雄さんが、1951(昭和26)年に中野で新規開業した店で、「特製もりそば」としてメニューに載せたのが「つけ麺」の初めて、と言われています。ときに1955(昭和30)年、当時の値段は40円でした。その店の名こそ「大勝軒」です。

中野の大勝軒は高度経済成長時代にマッチしてヒットし成長し、創業3年後には代々木上原に進出。中野の大勝軒は支店という位置づけとなり、山岸さんに任されました。その翌年、中野店で「特製もりそば」が生まれたことになります。大勝軒はさらに発展が続き、1961(昭和36)年に東池袋に支店を出します。これがマスコミで有名な池袋の大勝軒で、その名と人気メニュー「もりそば」は、一躍全国区の知名度となったのです。その後のれん分けが続き、たくさんの店が生まれました。それら各店では「丸長のれん会」を結成し、親睦は今も続いています。代々木上原系統のお店では「つけそば」と呼んでいます。ちなみに荻窪の「丸長」という店名は、創業者のうち3名が、長野県出身の蕎麦職人であったことに由来しているそうです(別系統の「丸信」も信濃出身に由来)。大勝軒の中野店は駅の南口、中野通り沿いで今も盛業中です。

ラーメンの「つけ麺」と日本蕎麦の「ざる蕎麦」との違いは、つけ麺は汁が温かいことでしょう。麺が冷たいものと温かいものがありますが、大抵の店では汁は濃くて温かく、麺の食後にスープでわって飲めるように(蕎麦湯のように)してくれるところが多いです。私も学生時代の好物でしたが、その頃は大学近所の「つけ麺大王」というチェーン店を愛用していました。「つけ麺」という名称は、この大王チェーンが初めて使用したそうです。

そんなこんなで、中央線沿線には「つけ麺」を出すお店がたくさんあります。沿線の中華そば・ラーメン店では、たいていメニューに載っているのではないでしょうか。それぞれの好みがありますから、どこが美味しいとは敢えて書きませんが、食べ比べをして見るのも面白いかもしれませんね。でもやはり一度は、創業の店である荻窪の丸長を訪ねてみていただきたいと思います(待ち時間が長いお店として有名なので御覚悟あれ)。闇市全盛時代の荻窪で、男5人が創業した昔を偲んでみるのもまた一興。その漬け汁が、酸いも甘いも噛み分けた味であることは間違い有りません。





 ジブリと中央線
     <2009/10/3(土)>

 今日の朝も雨。昼になり晴れて参りました。
さて、昨日は阿佐ヶ谷のラピュタのお話しでしたが、中央線沿線は宮崎アニメに関連した名所?がいくつもあります。宮崎駿さんの会社「スタジオジブリ」そのものも、東小金井駅の近く。あのあたりは最近高架化されたので、車窓からも見ることができますよ。東小金井駅の東(新宿寄り)に広大なJR変電所がありますが、そのすぐ西隣。白い建物で丸い窓が特徴的なのですぐにわかります。

スタジオジブリが1985(昭和60)年に設立されたときの事務所は、吉祥寺の貸しビルのワンフロア。その後、ご存じのように立て続けに長編アニメ映画のヒット作を生みだし、増え続けるスタッフ数に対応して1992(平成4)年、現在の小金井市の大きなスタジオに移転しました。あくまでも「中央線」ですね♪
 そうそう。スタジオジブリの作る実写版映画は「スタジオカジノ」というレーベルですが、決してギャンブルをしようというのではなく(笑)、スタジオの所在地「小金井市梶野町」に由来しています。

さて、阿佐ヶ谷には「トトロの家」と呼ばれる家がありました。まことに残念なことに「ありました」と過去形です。
 もともとは、ジブリともトトロとも何の関係もない単なる民家で、1929(昭和4)年に建てられた洋館。かわいい赤屋根と、白い縁取り窓のある建物を覆うように草が生い茂り、380uの広い庭は、キンモクセイやバラ、モミジ、ランなど、四季折々の美しい風情を醸し出す50種類以上の樹木や草花に彩られていました。場所は阿佐谷北5丁目、杉森中学校の西です。
 建てられた方は近藤謙三郎さんという方。近藤さんは帝大出の都市計画家で、東京市道路局勤務時代には銀座通りの改修にあたり、日本初の木製煉瓦を使うなど、どうやら早くから「自然と人間の融合」に関心があったようです。関東大震災後の帝都復興事業にも活躍。阿佐ヶ谷の自邸は、もちろん自らの設計で、当時ご本人は32歳くらいだったことになります。建てられた昭和4年という年は、ちょうど中央線沿線の人口激増期ですね。

宮崎駿さんは、東京近郊で「トトロが住みそうな家」を6軒選び、自ら『トトロの住む家』(1991年)という本を著して紹介しました。阿佐ヶ谷の近藤邸については、
「住まいとは、家屋と、庭の植物と、住まう人が、同じ時を持ちながら時間をかけて造りあげる空間。その植物達と、生きもの同士のつきあいをしている」
と表現。「たからもの」とさえ述べています。そのため地元では通称「トトロの家」として愛されてきました。

2007(平成19)年、居住されていた、近藤謙三郎さんの姪の方が、ご高齢により転居されたため、建物の保存が難しくなりました。地元では「貴重な景観を残したい」と保存運動が起き、6300人もの署名を集めて杉並区に陳情。区もこれに応えて建物の保存し、周囲の敷地を含めて「阿佐谷北公園」として整備することになりました。「地域のランドマーク」として、総事業費約4億円をかけ、2010年春にオープンの予定でした。
 巨額の費用がかかる事業ですが、区役所の「まちづくり推進課」は「決して高性能でも高級でもない。しかし花が咲き、虫がいる。緑とともに住むというのはどういうことなのか。その一つのモデルとしたい」と言っていたそうです(朝日新聞による)。さすがは杉並区。英断だったと思います。今年2009の4月に、杉並区の新条例による、「景観重要建造物」の指定第1号にされることも決定していました。

ところがっ!!
2009年2月14日。深夜に発生した火災により、この建物が全焼してしまったのです。どうやら放火と思われます。まったく……なんということでしょう。
 以前の形に再建することも検討されましたが、「レプリカは景観重要建造物には当たらない」という意見も出て、計画は白紙状態になってしまいました。事態を憂慮した宮崎さんは杉並区に協力を申し出、7月の末に、「あの家の記憶をとどめるような公園になり、町に彩りが添えられれば」というコンセプトで5枚のスケッチと平面図を区に提出し、その方向で公園化する話が進められています。次善ではありますが、ひとまず良かったと思います。

中央線沿線のジブリ名所めぐりとしては、小金井の「江戸東京たてもの園」内にある昔の銭湯「子宝湯」もはずせません。『千と千尋の神隠し』で描かれた「油屋」や、周囲の建物のイメージ作りの参考にされたとか。そのご縁からか、たてもの園のシンボルキャラクター「えどまる」は、宮崎さんのデザイン(芋虫っぽくて私はちょっと…)。
 けれども「子宝湯」は、行ってみると何の変哲もない昔の銭湯建築。私が学生時代に通った銭湯の方がもっと豪奢で、より「油屋」のイメージに近かった気がします。宮崎さんが子宝湯にヒントを得たという話しは、あくまでもスタジオジブリの地元、小金井市へのご配慮、なのかなぁとも思います。

そして何より、三鷹駅から玉川上水沿いに歩いて15分。井の頭公園の隣にある「三鷹の森ジブリ美術館」が、名所の最高峰でしょう。
ですが、ここを語れば有に1日分あります。もったいないのでまた後日、ということで。

ちなみに。
スタジオジブリの「ジブリ」というのも不思議な名ですが、実は第2次大戦中のイタリアの軍用偵察機の名前。宮崎さんは『紅の豚』などでわかりますように飛行機マニアなので、そういうマイナーな飛行機の名前も知っていたそうです。で、「ジブリ」そのものは、本来は「サハラ砂漠に吹く熱風」を表し、それをイタリア軍が偵察機の名前にしていたわけ。 …で、「日本のアニメーション界に旋風を巻き起こそう」という意図のもと、スタジオの名称に採用されたとのことです。さすがは宮崎駿さん。何から何まで凝ってますねぇ。





 中央線のお嬢様
     <2009/10/13(火)>

 吉祥寺の高級住宅街に、キンモクセイの香りが街にただよい始めました。
なんとも濃厚で幻惑的な芳香。日本の花の香の中でも、突出しているのではないでしょうか。以前、職場にフランスから親善視察?の御一行がお見えになったとき、ちょうどキンモクセイが咲き香っている時期でした。
「Qu…Quel parfum est ceci?(こ、この芳香はいったいなんでしょう?)」
と、青い目を丸くして驚かれていました。
キンモクセイである旨を答えますと、
「素晴らしい!バラの香りはこんなにも周囲には広がりません。世界最高のフレグランスですね、これは。まさに東洋の神秘! 良い時期に日本に来られてうれしいです。」
と、お世辞抜きに喜んでおいででした。
 私も、キンモクセイ関係者(なんじゃそりゃ)ではないにも関わらず、その賛辞が何ともうれしかったです。キンモクセイは、まさに東洋の代表的芳香植物だと思います。

キンモクセイは、中国南部が原産の常緑小高木樹で、諸説あるものの、江戸時代に渡来したとする考え方が一般的。江戸時代の人たちも、その芳香に驚いたでしょうね〜。これに匹敵する芳香植物は、春のジンチョウゲくらいじゃないでしょうか。ジンチョウゲも中国南部原産の植物で、日本にもたらされたのは室町時代とされますから、キンモクセイよりは先輩です。

キンモクセイの香りを留めたい、という中国の人々の思いは、さまざまな加工食品を生みました。白ワインに花を付けた「桂花陳酒」は有名ですし、お茶に花を混ぜた「桂花茶」、花を蜜煮にしたジャムのような「桂花醤」などなど。
 しかし、どうもこれらの製品には、あの自然な芳香は留まってくれていないようです。別物の香りになってしまっているような……。
 皮肉なことに、もっとも自然のキンモクセイの香りに近いのは、化学合成されたトイレの芳香剤。以前、子ども達はキンモクセイの香りを「トイレの香り」なんて表現していました。最近は芳香剤も種類が広がり、より自然で、化学的芳香臭の少ないものになりつつありますが。

さて。
高級住宅街の雰囲気を出すものとしては、キンモクセイやジンチョウゲの香りとともに、
「いずこからともなく聞こえてくるピアノの音」
吉祥寺・西荻の住宅街にも、やはりピアノの調べが流れます。
 私が子どもの頃、「ピアノ=お嬢様」というイメージがありましたからねぇ、少なくとも京都市内では。そうそう、当時は「カラーテレビ=お金持ち」でした。貧乏人のせがれのアタクシとしましては、どこからかピアノの音色が聞こえてきますと
「ああ、どこかに深窓の令嬢が…」
などと、妄想たくましくしていたものなのでございます。
 実際のところ、京都市内は広い庭のある家が少なく、ご近所を気にしないでピアノの練習……いや、レッスンをすることの出来るおうちは、本当にお金持ちだったんじゃないかと、今にして思います。

さて、お嬢様と言えば「お嬢様学校」。
ありますよ、中央線沿線にも、お嬢様学校、伝統ある女子高が。

中央線沿線が、関東大震災以後に急速に宅地化されたこと、都心から官僚や軍人、高級サラリーマンたちが大挙移住し、荻窪はじめ高級住宅街も形成されたこと。そのことは何回かお話しして参りました。そうした大金持ち&小金持ちが住みますと、どうしたってご令嬢を通わせる学校が必要になって参ります。

今、女子大や女子高は経営的に厳しい環境にあります。少子化で、入学者の「パイ」が小さくなる一方の世の中で、始めっから「パイ」を自ら半分放棄してしまっているわけですからね。それに女の子たちが共学を望み、女子高を敬遠するという風潮も顕著。そのため、阿佐ヶ谷の菊華(女子)高校が男女共学化して「杉並学院高校」になったり、そういった例は数多いですし、今後も増えるでしょう。
 けれども「女子高なら安心」という親御さんも、まだまだおられますし、むしろ教育の質を確保し、厳格な情操教育と豊かな女性的素養を身に付けることのできる、女子教育機関の存在意義をご理解くださる方も、依然としておいでです。それで今でも、入学者を「女子」に限った高校は沿線にも存在しています。

まず中野。ここには北口徒歩10分のところに「大妻中野高校」があります。
 こちらはもともと、九段の大妻女子大とは無縁の学校でして、1941(昭和16)年に創設された「文園高等女学校」が前身。文園(ふみぞの)というのは、所在地辺りの旧字(あざ・地名)です。1971(昭和46)年に経営的判断?から大妻女子大学の付属となり、「大妻女子大学中野女子高等学校」に改称。さらに1995(平成7)年に「大妻中野高等学校」に名称を変更しました。名前に「女子」が付くと、集客力に影響が出るというご判断からでしょうか。
 こちらの生徒さんが胸に付けるのは「丸に十の字」みたいな校章バッヂ。この糸巻き形は、大妻家の家紋を象ったもので、大妻グループ?共通のマークです。大妻中野の場合、糸巻きマークの上に、文園時代以来の梅花を重ねたマーク。このバッヂの裏側に、大妻の校訓 「恥を知れ」 が刻まれていることを知る人は、中野でも数少ないでしょう。
 中野北口の飲屋街、赤い顔の「恥を知らない」酔っぱらいオヤジの目の前を、制服(中学はセーラー服)姿で大勢で歩いている姿は、実にシュールです。

高円寺には「光塩女子学院高校」。中央線の車窓からは、下り電車で環七を越えた辺り、左手(南側)ちょっと遠くに、十字架と「KOEN」というサインがある、茶色の校舎が見えます。
 こちらは、1931(昭和6)年、現在地に光塩女学校として開校しています。「高円」寺も「光塩」も、読みは同じ「こうえん」なので、学校名が地名にあやかったと勘違いされやすいのですが、「光塩」というのは、聖書にある「あなたがたは世の光、地の塩である」という言葉に由来しています。まぁ当時、「学校をどこに開くか」検討している中で、「高円寺なら語呂が似ていてよろしいのではないか」というご判断もあったのではないかと、推察いたしますけれども…。
 ※むかしフジテレビに「千野志麻」さんという女子アナがいました(現在フリーアナ)が、その名前の読みは「ちのしお」。これはご両親が熱心なクリスチャンで、「せっかく千野という姓なのだから名は『しお』にしよう」という思いの命名だったそうです。
 この学校、皆様が抱く「厳しいお嬢様学校」というイメージにふさわしいことでは、まさにピカイチ。まるでTVドラマの中の厳格女子学院。その意味では学習院も聖心も、こちらには敵わないと思います。「志操堅固」な真面目で品格のある女性を育て、また進学教育にも熱心で、ご両親が一番安心できる学校でしょう。生徒さんにはちょっときついかもしれませんが、後々になって、その厳しさの有難味を感じることになると思いますよ。
 ジャンパースカートに縞のネクタイが可愛い制服ですが、行事式典のときだけは、そのネクタイを外に出して着るということを知る人は、高円寺でも多くはないでしょう。(こんなのばっかり)。

阿佐ヶ谷は「文化女子大学付属杉並高校」。
 こちらも大妻中野と同じように、開校当初は大学と関係なし。1926(大正15)年に創設の「城右高等女学校」が前身で、1974(昭和49)年に文化女子大学の附属となり、校名を現在のものに変更されました。この学校はクラブ活動に熱心なのが有名で、文化部・運動部さまざまなジャンルで全国大会に出場しています。珍しいのが女子高らしい「薙刀部」。それに弓道部の使う弓道場が、中央線の高架下を利用したものというのがウレシイじゃないですか。弓道場は長いスパンが必要ですから、高架下はうってつけですね。
 こちらの、ジャケット丈の長いオシャレな制服、実は、今をときめく「鳩山幸」夫人もご愛用の、世界的有名デザイナー「コシノジュンコ」さんのデザインなのです。なにせコシノさんは文化服装学院のご出身ですからね。系列校は強し、です。

荻窪…は無いですか。

西荻窪には「吉祥女子高校」があります。吉祥寺との中間、ちょっと西荻寄り。
こちらは1938(昭和13)年に創設の「帝国第一高等女学校」が前身でしたが、新宿区大久保にあった校舎が戦災により焼失。戦後の1946(昭和21)年 、今の校地に移転し、翌年に「吉祥女子中学」に校名を変更しました(高校はその翌年に開校)。以前、吉祥女子といえば「性教育の先進校」として(一部で?)有名でした。また芸術系コースがあったりして、独特の存在感を持った学校でした。今は東大や有名私大にもバンバン進む進学校として有名です。
 10年ほど前まで、中央線から見える校舎は白いコンクリート造りの(申し訳ないですが)パッとしないものでした。それが、噂では"費用数億円"といわれる大工事をおこなってリニューアル。赤レンガで塔のある、なんと申しますか「東京駅」風の、いかにも名門女子高っぽい、洗練された建物になって、それから受験生の人気はうなぎ登りのようです。そうなれば優秀な生徒も入ってきますから進学成績も良くなる。そうすると更に……と好循環。経営陣の狙い、バッチリだと思います。あ、それからこちら「きっしょうじょし」ではありません。「きちじょうじょし」ですので、お間違いなく。関係者はよく間違えられて悲しい思いをされます。

吉祥寺には「藤村女子高校」。こちらは1932(昭和7)年の創立。現在国立にある「東京女子体育大学」の系列校で、そのため体育系のコースもありますが、今度「特進コース」を作って進学にも力を入れられるとか。このあたりは、いずこの女子高にも顕著ですね。ここは吉祥寺の駅から徒歩数分、若者が集まる「東急裏」と呼ばれる一等地に立地しています。それだけでも集客力は大きいはず。他の女子高にとって、このアドバンテージは羨ましい限りでしょう。
 もともと、東京女子体育大学の前身「東京女子体育専門学校」は吉祥寺にありました。1961(昭和36)年に同校が国立に移転するにあたり、その跡地は武蔵野市が買収して、現在のF&Fビルになりました。

吉祥寺とは言えないかも知れませんが、井の頭線で2駅行った三鷹台には「立教女学院高校」があります。名前からしてお嬢様学校。こちらは明治初年からの歴史を持ち、1877(明治10)年に、文京区湯島に創設された「立教女学校」が濫觴。関東大震災後、1924(大正13)年に現在の三鷹台、杉並区久我山に移転しました。
 ミッション系の学校は、上智を「ソフィア」、池袋の立教を「セントポール」と呼ぶように、何と言うんでしょう、セカンドネームみたいのがあって、立教女学院は「セントマーガレット」。いかにもオシャレですね〜〜。池袋の立教以上にキリスト教色が強く、さまざまな礼拝や宗教活動が授業として組み入れられています。こういうのも、端から見るといかにも「お嬢様学校」っぽいですね。

まぁ、そんなこんなで中央線沿線にも名門女子高がたくさんあって、それぞれが歴史と伝統を培い、教職員のみなさん、生徒諸君が誇りを持って中央線に乗車されていることは、外部のこちらからもよくわかります。こういう誇りと矜持の気風が、中央線文化に「山椒は小粒でぴりりと辛い」アクセントになっていることも、また間違いのないところでしょう。





 「中央線唱歌」
     <2009/12/3(木)>

 『鉄道唱歌』をご存じですか?

「♪汽笛一声新橋を はや我が汽車は離れたり♪」
のフレーズを歌えば、お判りになる方も多いのではないでしょうか。
1900(明治33)年に、地理教育の一環として発表されたこの歌は、軽快なテンポの曲に載せて、各地の歴史や物産を読み込んだ楽しい作品として、大人を含めて多くの人に愛されました。

新橋から始まる「東海道」線を歌った第1集から、「山陽・九州」「奥州線・磐城線」「北陸地方」「関西・参宮・南海各線」と、当時の全国の路線を読み込んだ全5集が作られました。けれどもその後も続々と、同じメロディーで歌える各路線の歌詞が作られてゆきました。「北海道」や「東京電車唱歌」から、なんと「満韓」まで!!

あまり知られていませんが、中央線もあります。1911(明治44)年の作品。
ただしこれは、名古屋まで至る「中央本線」の歌で、このブログが扱う範囲は、あっというまに過ぎてしまいます。

1 汽笛一声わが汽車は はや離れたり飯田町
 牛込市ヶ谷堀の端 四ツ谷出づれば信濃町

2 千駄ヶ谷代々木新宿 中仙道は前を行き
 南は品川東海道 北は赤羽奥羽線

3 大久保つつじの花盛り 柏木中野に兵営を
 見るや荻窪吉祥寺 境を過ぐれば国分寺

ね?
ほとんど途中駅を羅列しただけで、面白くありません。

そこでっ!!
酔った勢いで作ってみました、平成の中央線(総武線)唱歌。

途中の景色を思い浮かべながら、「♪汽笛一声新橋を」のメロディーで歌ってくださいな。
私としましては、ちょっと自信作です。

『平成中央線(総武線)唱歌』

1 国の都の真中(まなか)なる 東京駅を旅立ちて
 神田過ぐればお茶の水 四谷を越えて新宿へ

2 今の栄えの新宿を 飾る言の葉あまたあり
 語り尽くせぬ街なれば はや行き過ぎて進ままし 

3 すすきの生えし武蔵野と 呼ばれしことは昔にて
 いまは新宿副都心 摩天の楼閣そびえたり

4 山の手線と並びいて 進めば右は歌舞伎町
 夜なお昼とまごうたる 国随一の歓楽地

5 緑に身を染む山の手に 別れを告げて西へゆく
 大きく曲がりて大久保の 古き駅舎は迎えたり

6 かつてはツツジの名所にて 多くの人が遊びしを
 今はコリアンタウンとて 舌に花咲く唐辛子

7 曲がる線路の下をゆく 流れは神田の水清し
 春は桜の花並木 冬はフォークの「神田川」

8 あふれる川より流れ来る 鯉を集めし釣り堀が
 栄えて今は日本閣 先見る人の賢さよ

9 曲がり果てなば現わるる ここは東中野駅
 むかしの名前は柏木と 知る人いまは数少し

10 山手通りをくぐり越し 右の土手道春うらら
 黄色く咲ける菜の花は 紅の桜の裾模様

11 ここより西へ五里あまり 真直ぐに伸びる鉄の道
 明治のむかし武蔵野の 原に引きたる直線規

12 中野の北にそびえたる 三角形はサンプラザ
 演歌に民謡ジャズロック 集まる人は西東

13 むかし陸軍電信隊 中野学校憲兵隊
 今は区役所サンプラザ 群れ寄る鳩の色白し

14 駅より歩きて十五分 新井薬師の名水は
 恋の患い目の病 霊験今も名は高し

15 花の高級マンションと 呼ばれしことはいずかたぞ
 今はアニメにまんだらけ ブロードウエイは人の波

16 夕闇せまる頃ならば 赤提灯に灯がともり
 酔いし親父の顔色は 提灯色に染まりたり

17 高架となりて進みゆく 左に見えし森かげは
 江戸より続く高円寺 桃園川もほど近し

18 日本のインドの名を得たる カオスうずまく路地裏に
 若人今日も集い来て 奏でしロックに踊るらん

19 夏の東京名物と なりて楽しや阿波踊り
 集まる人のその数は 驚くなかれ百余万

20 北のアーチは純情の 商店街を下に見て
 昭和の香り今もなお 変わらぬ人の情けあり

21 中杉通りケヤキ道 下に眺むる阿佐ヶ谷の
 ホームに流るる葉ずれ音 ジャズの音色も伝えけん

22 いくさの後に商人(あきびと)が 街に招きし人のため
 かざる七夕揺れる影 流れは人か時の間か

23 井伏太宰に火野三好、集まる阿佐ヶ谷文士村
 世塵を避けて武蔵野に ペンの光をもたり来ぬ

24 高架を下り天沼の 陸橋下をくぐりゆく
 もとは中島飛行機の 資材を運ぶ道とかや

25 しばし眠りて夢うつつ 焦げる焼き鳥香をかげば
 荻窪駅と気がつきぬ はなしも今はなつかしや

26 ここは地下鉄丸ノ内 銀座通いの始発駅
 外資企業のビル高く ビジネス街の顔もあり

27 環八越えて右に見る 荻生え盛る光明寺
 奈良の昔にはるばると 教え伝えし物語

28 ここよりかつての井荻村 先に明るき村長(むらおさ)が
 整い正せし街並みに 住むは近衛の荻外荘

29 地震を避けて移り住む 文士は多く鉄幹の
 妻の晶子は紫の 今世の文を著しぬ

30 ふたたび高架に戻りきて 南の西を眺むれば
 丹沢越えてそびえ立つ けだかき富士のめでたさよ  

31 こころの世界に遊びたる 人々集う西荻に
 香るはハーブか香木か 鎮まる安堵の心地よさ

32 北に進めば古美術の 店あつまりし所あり
 遥かに聞くは女子大の チャペルの鐘の音ならん

33 古く栄えし五日市 その街道を越えたれば
 突如繁華の巷あり その名も高き吉祥寺

34 住み良き街とことごとに 呼ばれし誉れのゆえなるか
 物件価格に人々は 高嶺の花とあきらめん

35 数寄者趣味人知識人 くせ者多き道筋に
 渋谷の風をもたらしぬ 電車の止まりもあるならん

36 三代将軍家光が 名付くと言いし井の頭
 ボートに乗れば別れんと 池の伝えも面白し

37 駅の南にまた北に 百貨の店が並び建ち
 その裏側に栄えたる 趣味の雑貨の店多し

38 左に森をながめつつ 家並み低くなりに来て
 進めばやがて三鷹駅 総武電車の果てなりや

39 駅舎の下に流れしは 玉川上水暗渠にて
 飲まれし太宰の面影を 今も慕いし人多し

40 南は三鷹市北口は 武蔵野市役所通り道
 国木田独歩の著しぬ その雰囲気を残したり

41 西を望めば夕立の 空より広き武蔵野に
 入り日はすでに傾きぬ 電車と同じ色なるや

どうです?
自画自賛ですが、なかなか良いんじゃないかなぁと。
読まれた方、流行らせてくださいな(笑)。





 さよなら「オレンジ色のニクイやつ」
     <2010/6/29(火)>

 全80話で一応打ち止めとしたこのブログですが、この間、新たに阿佐ヶ谷と密接な関係が生まれ、中央線にますますハマった日々を送っております。
 阿佐ヶ谷、良いですよ。
 成熟した大人の街。
 相互の価値観を尊重しあい、「変わった」ものほど評価を受けるような、まさに中央線の色をもっとも色濃く体現した街のように思えます。
繁華な飲屋街も客引きは皆無で、間口の小さな一軒一軒が、店主のこだわりを感じさせる店たち。常連を大切にしながらも一見を歓迎する、インテリジェンスあるホスピタリティ。
 いや、本当に良い街です。

……。
阿佐ヶ谷話をするつもりじゃなかったのでした。
ブログの「中ジメ」をするのに適した話題が生まれたのです。
それは全体がオレンジ色に彩られた、「中央線快速201系」がまもなく引退、もう見られなくなってしまうという、エポックメーキングな出来事なのです。

 201系電車は、国鉄時代の1979(昭和54)年に導入され、1985(昭和60)年までの間に計1,018両が製造されたそうです。その間の30年、中央線の顔としてオレンジの雄姿を私たちに見せてくれました。
 老朽化への対応と省エネ促進のために、2006(平成18)年からステンレスボディーの「E233系」に順次置き換えられ、近年の201系の運行は1日わずか2編成になっていて、見かけることが希な「幸運の電車」扱いされていたそうです(私は「幸運の電車」とまでは思いませんでしたが、オレンジボディーが駅のホームに入ってくると、「を!珍しや!」と感激したことは間違いありません)。

「オレンジ色の中央線」は201系から始まったのではなく、先々代の101系(前面に黒い部分がないタイプ、1985(昭和60)年まで運行)のスタート時からオレンジ色(国鉄呼称「朱色1号」)に塗装されていました。
 1958(昭和33)年に国鉄が、「国電」(戦前の言い方では「省電」)がすべて茶色(ぶどう色2号)なのがわかりにくく、誤乗車を招くとして、山手線=黄緑6号(当初は黄1号)、中央線=朱色1号、京浜東北線=水色(青24号)といった「ラインカラー」というものを開始しました。ここに「オレンジ色の中央線」が始まりまったのです。
E233系になっても、車体にはオレンジ色の帯が巻かれて、「オレンジ色の中央線」は残りますが、「オレンジ色の電車」というイメージはなくなってしまいますね。少し残念。

JR東日本では、「さよなら中央線201系」キャンペーン第1弾を4月1日から6月20日まで実施。行き先を示す方向幕をモチーフにした「方向幕ボールペン」(630円)やSuica定期入れ(600円)、携帯ストラップ(700円)などが販売されました。くるくる回る方向幕はE233系ではLED電光表示板に置き換えられて姿を消します。
 キャンペーン第2弾は7月1日から。そして201系は10月17日のラストランが最終運行。なんと信州・松本まで走行し、そこで廃車となるそうです。

ひとつの時代が変わったな、としみじみ感じます。

けれども、たとえ車体がステンレスの無機質な輝きになろうとも、中央線の各駅を取り巻く街と、そこを愛する人々に色濃く残る「オレンジ色の文化」は、決して色あせることなく、いつまでも受け継がれていくことでしょう。
 そう、心から願ってやみません。